小さいけれど、どんなものだって爆破する。そんな存在になりたくて……

3・青春時代

 龍之介が十三歳のとき、東京府立第三中学校(現在の両国高校)に入学しました。本来であれば高等小学校二年次修了で中学校への入学資格が得られるのですが、龍之介が病弱だったことと、家庭の問題で、一年遅らせて入学しました。龍之介は、同級生の山本喜誉司(やまもときよし)西川栄次郎と特に仲良くしました。特に喜誉司の家にはよく遊びに行っていました。龍之介が十五歳のとき、塚本文(つかもとふみ)という七歳の女の子が、お母さんと弟とともに、喜誉司の家に引っ越してきました。文たちは長崎県の佐世保に住んでいましたが、お父さんが日露戦争で戦死したため、親戚の喜誉司の家に引っ越してきたのです。龍之介は、幼い文をこの頃から「文ちゃん」と呼び、大変可愛がりました。
 この頃の龍之介は、文武両道で、大変真面目な生徒でした。柔道や水泳を習ったり、発火演習の小・中隊長をつとめるといった健康的な一面を持っていました。勿論、勉学や読書にも通じていて、漢文と英語を得意としました。特に漢文は、自分から勉強し、折折七言絶句を作るほどでした。読書も日本のものだけでなく、アナトール・フランスやイプセンなどを辞書を片手に読んでいました。体育の授業でランニングをしている途中に列を抜け出し、船橋屋の葛餅を食べる、ばれないようにさっと列に戻る、というお茶目な一面もありました。もっとも、口の周りにきな粉がついていて、教師から怒られていましたが。
 十八歳のとき、第一高等学校(現在の東京大学教養過程)に入学しました。この年から、中学校で優秀な成績を修めたものは無試験で入学できるという、今の推薦入試のような制度が始まりました。龍之介は学年二番の優秀な成績だったため、この制度を使い、無試験で第一高校に入学しました。そこでは、久米正雄、菊池寛、松岡譲、山本有三、土屋文明、成瀬正一、井川(のちの恒藤)恭、石田幹之助などがおり、独法科には、秦豊吉、藤森成吉、一級上の文科には豊島与志雄、山宮允、近衞文麿などといった、そうそうたるメンバーが揃っていました。龍之介は、一年生のときは寮には入りませんでしたが、二年になるとそうはいかなくなり、寮に入りました。寮では自堕落な寮生活や同級生を嫌い、本ばかりを読んでいました。寮で同室だった井川恭は、当時唯一の友人で、主に哲学のことを議論しあいました。
 高校でも二番の成績で卒業した龍之介は、東京帝国大学の英文科に入学しました。そこで講義を受けている学生におじいさんが多かったことに、龍之介はビックリしてしまいました。高校時代、唯一の友人だった井川恭は京都帝国大学の法科に進んだため、龍之介は別の友人と仲良くするようになりました。その友人たちというのが、高校時代はそれほど仲がよくなかった、久米正雄や松岡譲らです。彼らの殆どは、創作家志望でした。彼らの影響を受けて、龍之介は創作に興味を持ち始めました。
 二十二歳のとき、これらの仲間たちと一緒に、第三次『新思潮』を発刊しました。龍之介は、本名を捩った『柳川隆之介』というペンネームで、アナトール・フランスの翻訳や『老年』、『青年と死』といった小説を寄稿しました。しかし、この頃の創作はまだ趣味程度。プロで創作家になりたいという考えには、まだ結びついていませんでした。
 二十二歳の夏、吉田弥生(よしだやよい)という女性に手紙を出しました。弥生は龍之介と幼稚園・小学校で一緒の幼馴染みで、その当時はあまり仲がよくありませんでしたが、ふとしたきっかけから後に仲良くなり、交際を始めました。弥生は美人というほどの顔立ちではありませんでしたが、龍之介好みの頭のよい女性で、英語が得意でした。龍之介はこの弥生と結婚したいと本気で思っていましたが、現実はそうは行きません。芥川家からはひどく反対されました。弥生が士族の娘でないこと、私生児であること、龍之介と同い年の三月生まれであったことが理由でした。そして、弥生には既に婚約者がいました。
 龍之介は、弥生との恋に破れ、ひどく傷付きました。
 井川恭には、この恋愛を通じて、エゴイズムと人間の醜さを知った、という文面の書簡を送っています。その後、傷心を癒すため、学校の夏休みを利用して、恭の故郷である松江にしばらく滞在しました。このとき、漢文を駆使して書いた『松江滞在記』は、はじめて本名で書いた文章で、『松陽新報』という地元の新聞紙に掲載されました。
 この年の十一月、弥生との恋愛を昇華させ、王朝時代に題材を借りた短編小説『羅生門』を『帝国文学』に発表しました。今でこそ高校の教科書に載っていて、誰もが知っている名作ですが、この当時は文壇から見向きもされませんでした。
 しかし、龍之介の創作意欲は高まっていきます。大学の同級生である林原耕三に誘われて、夏目漱石の主催する『木曜会』に出席するようになりました。元々龍之介は漱石のファンで、憧れの漱石に指導を受けられるのが嬉しくてなりませんでした。
 大正五年、菊池寛・成瀬正一・久米正雄・松岡譲らとともに、第四次『新思潮』を発刊し、龍之介は『鼻』を発表しました。これを見た漱石から賞賛され、龍之介はかつてないほどの感激を受けました。これがきっかけで、本格的に創作家として活躍していきたいと思うようになりました。その後、『虱』という小説ではじめての原稿料を頂き、『手巾』が『中央公論』に掲載されました。『中央公論』に掲載されるということは、文壇に認められたといっても過言ではないことでした。
「これでボクも文壇の仲間入りを果たしたぞ!」
 龍之介の創作活動は軌道に乗り始めました。一方で、恋愛の方も順調でした。弥生との恋に破れた後は、別の女の子に気持ちをシフトさせていきました。その女の子と言うのが、山本喜誉司の家に居候していた、塚本文です。文はこのとき十六歳になっていました。龍之介は、当時としては結婚適齢期になっていた文に対し、求婚の手紙を送りました。文からの返事はOKでした。東京帝国大学を、これも二番の成績で卒業した後は、海軍機関学校の嘱託教官としての就職が決まり、英語を教えることになりました。
 しかし、そんな順風満帆な日々も、そう長くは続きませんでした。
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