1892年 (明治二十五年) 0歳 | 3月1日、新原敏三・フクの長男として、東京市京橋区入船町(現在の東京都中央区明石町)にて出生。 ※敏三は山口県出身の農民で、牛乳屋を営んでおり、新宿・日暮里・王子に牧場を持っていた。龍之介には、龍之介出生前に亡くなった姉(ソメ)と四歳上の姉(ヒサ)がいた。 ?月?日、敏三数え四十三歳、フク数え三十三歳の大厄だったため、捨て子となる。 10月25日頃、母・フクが発狂したため、龍之介はフクの実家である芥川家に預けられる。 ※母の実家・芥川家に子がなかったため、龍之介は養子として預けられた。養父の道章は東京府に勤務し、土木課長であった。龍之介は芥川家に預けられた後も、実家の新原家との交際を続けた。 | |
1893年 (明治二十六年) 1歳 | ?月、新原家が芝区(現在の東京都港区浜松町)に転居する。 | |
1894年 (明治二十七年) 2歳 | | |
1895年 (明治二十八年) 3歳 | 春~秋、芥川家が改築される。 ※当時の芥川家には、沢山の植物が植えられていた。龍之介は一本の蝋梅を愛するとともに、五葉の松を不気味に思った。また、仏壇にある金箔の黒ずんだ位牌や、土偶のお狸様に恐怖を感じるほどの神経質な子どもだった。 ※当時、肝の高い子どもで、ひきつけをよく起こすだけでなく、少しでも神経が高ぶると一晩中眠られなくて、翌日から激しく熱が出るほどの虚弱体質だったそうである。 | |
1896年 (明治二十九年) 4歳 | | |
1897年 (明治三十年) 5歳 | 4月、江東小学校付属幼稚園(回向院の近くにあった幼稚園)に入園する。 ※この頃の夢は、海軍将校であった。 | |
1898年 (明治三十一年) 6歳 | 4月、江東小学校(現在の墨田区立両国小学校)に入学する。 ※この頃の夢は、海軍から洋画家に変わっていた。 | |
1899年 (明治三十二年) 7歳 | 7月11日、異母弟・得二が生まれる。 ※この得二は、実父・敏三と、新原家の手伝いに来ていたフユ(龍之介の実母・フクの妹)との間に生まれた。得二はフクの子として届けられた。龍之介とはあまり相性がよくなかったようである。 | |
1900年 (明治三十三年) 8歳 | | |
1901年 (明治三十四年) 9歳 | | |
1902年 (明治三十五年) 10歳 | 4月頃、同級生の清水昌彦、野口真造らとともに、回覧雑誌『日の出界』を発行する。 ※龍之介は自ら編集し、表紙絵やカットも描いた。 11月28日、実母・新原フク死去。 ?月、大野勘一(東京府給仕)の塾に通い、英語や漢学を習うようになる。 | |
1903年 (明治三十六年) 11歳 | | |
1904年 (明治三十七年) 12歳 | 5月4日、東京地裁で、家督相続人廃除の判決を受ける。 8月、芥川家に正式に養子縁組する。 ※龍之介をこのまま芥川家で育てるか、新原家に戻すかで両家は争っていた。だが、新原家には龍之介の異母弟・得二が生まれており、この得二が相続人となること、得二の母・フユが新原家に入籍することでこの問題は解決された。何よりも龍之介自身が、育ててくれた芥川家を捨てたくないと思っていたことが大きかったようである。 | |
1905年 (明治三十八年) 13歳 | 3月、江東小学校高等科を三年で修了する。 4月、東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高校)に入学する。 ※本来であれば、小学校の高等科二年卒業で中学校の入学資格が得られるが、龍之介が病弱であったため、一年遅らせて入学した。 ※同級生には、小学校から一緒の上瀧嵬、清水昌彦、能勢五十雄、他には山本喜誉司、西川栄次郎、依田誠など。二学年上に久保田万太郎、河合栄次郎。三学年上には後藤末雄などがいた。 ※このうち山本喜誉司は、後に妻となる塚本文の叔父にあたる。龍之介は、西川栄次郎と特に仲がよかった。 5月13日、大森、川崎方面へ遠足に行く。 5月27日、日本が日本海海戦に勝利する。 ※龍之介はこの勝利の号外に、「国民的感激」をした。 | |
1906年 (明治三十九年) 14歳 | 4月頃、大島敏夫、野口真造らとともに回覧雑誌『流星』を発刊する。 ※この回覧雑誌は後に『曙光』と改題。龍之介は『廿年後之戦争』などを書いた。 8月7日、千葉県(勝浦・小湊)に旅行する。 (~11日) ?月、箱根・上諏訪に旅行する。 | |
1907年 (明治四十年) 15歳 | ?月、同級生・山本喜誉司の家に移ってきた塚本文を知る。 ※この塚本文は、言うまでもない、後に龍之介の奥さんとなる女性である。 | |
1908年 (明治四十一年) 16歳 | 夏休み、広瀬雄、依田誠と関西旅行に出かける。 | |
1909年 (明治四十二年) 17歳 | 3月末、銚子に旅行する。 4月、静岡県(静岡市・久能山・龍華寺)に旅行する。 8月、市村友三郎、中原安太郎らとともに槍ヶ岳に登山する。 ※後に『槍ヶ岳に登った記』として書かれる。 10月26日、修学旅行で日光(足尾銅山・中禅寺湖など)に行く。 (~28日) | |
1910年 (明治四十三年) 18歳 | 2月、『義仲論』を校友雑誌に発表する。 ※これが、龍之介がはじめて人前に出した文章である。 ※この頃は、歴史家になりたいと思っていた。 3月、東京府立第三中学校を卒業する。 ※龍之介は多年成績優秀者の表彰を受けた。当時の龍之介は性行の立派な模範生徒だった。英語と漢文が得意で、特に漢文は、自分から進んで漢詩を勉強し、折折七言絶句などを作るほどだった。 ※『大導寺信輔の半生』には「操行点は六点を上回らなかつた」と書かれているが、これはかなり誇張しているらしい。実際には発火演習の小・中隊長を務め、西川栄次郎とともに浜町河岸の大竹道場に柔道の寒稽古に通った。水泳も習っており、運動神経はそれほど悪くなかったそうである。 ※読書も、日本のものだけでなく、漢詩やイプセン、アナトール・フランスなどの外国文学も、辞書を片手に読んでいた。 6月6日、第一高等学校文科への願書を提出する。 8月、大雨のため、墨田川氾濫。大水害に遭う。 ※龍之介は罹災者救済に協力した。この様子は『水の三日』に描かれている。 9月、第一高等学校一部乙(文科)に成績優秀のため、無試験で入学。 ※この年から、中学校で優秀な成績を修めたものは、高校へ無試験で入学できる制度が始まった。今で言う推薦入試のようなものである。 ※同級生には久米正雄、菊池寛、松岡譲、山本有三、土屋文明、成瀬正一、井川(のちの恒藤)恭、石田幹之助などがおり、独法科には、秦豊吉、藤森成吉、一級上の文科には豊島与志雄、山宮允、近衞文麿などがいた。 ※井川恭と特に仲がよく、西田幾多郎の哲学を議論したり、観劇・展覧会・音楽会・写生などに出かけた。 ※一年のときは、寮には入らなかった。 秋、芥川一家は、新宿の敏三の持ち家へと移転する。 ※龍之介は二階の自室で、読書に多くの時間を費やした。 | |
1911年 (明治四十四年) 19歳 | 夏、槍ヶ岳に登る。 10月中旬、那須塩原へ旅行する。 ※第一高等学校二年次より、学校の寮に入る。この当時は、自堕落な寮生活や同級生をあまり好まず、本の虫だった。同室だった井川恭とは、当時唯一の親友で、卒業後も親交は続いた。 ※この頃、19世紀末に出版された海外文学を多読しており、これらの厭世主義・懐疑主義は『世紀末の悪鬼』として、龍之介に大きな影響を与えた。 | |
1912年 (明治四十五年 大正元年) 20歳 | 4月初旬、富士裾野を半周して大宮に到る旅行に出かける。 8月中旬、木曽・名古屋方面に旅行する。 8月、『椒図志異』のノートを作成する。 ※自分で読んだ怪談や妖怪変化の話、家族・友人から聞いたよう怪談をメモ分類してノートを作成した。 11月11日、石田幹之助、久米正雄、井川恭とともに横浜のゲーティ座へ行き、アラン・ウィルキィ一座の『サロメ』を鑑賞する。 ※この頃、山宮允に誘われて、吉江孤雁を中心としたアイルランド文学研究会に出席する。ここで『仮面』のメンバーだった日夏耿之介、西條八十、森口多里などと知り合う。トマス・ジョーンズと知り合ったのもこの頃である。 | |
1913年 (大正二年) 21歳 | 6月22日、卒業旅行を終えた後、井川(恒藤)恭ら学友三人とともに、群馬県(赤城山・伊香保・榛名山)へと旅行する。 (~25日) 7月、第一高等学校卒業。 ※ここでも卒業時の成績は、二十七人中二番だった。因みに一番は井川(恒藤)恭であった。 8月6日、静岡県不二見村(現在の静岡市清水区)の新定院に滞在する。 (~8月21日) ※滞在中には森鴎外の短編小説集『十人十話』『意地』『分身』『走馬燈』などの他、英訳の短編小説集を多読している。 9月、東京帝国大学英文科入学。 ※大学では、高校時代の親友・井川恭が京大法科へ進学したため、創作家志望の久米正雄や松岡譲と交際した。 ※大学では、学生におじいさんが多いことと、講義がつまらなさそうなことが印象的だったそうである。 ※この頃、ドストエフスキーの『罪と罰』を読み、大いに感心している。 11月16日、藤岡と鎌倉に、第一高校時代の恩師・菅虎雄(白雲)宅を訪問する。 ?月、山宮允に頼まれて、第一高校時代の恩師・畔柳都太郎のショーを読む会に出席する。 | |
1914年 (大正三年) 22歳 | 2月、豊島与志雄、山宮允、久米正雄、菊池寛、松岡譲、山本有三、土屋文明らと、第三次『新思潮』を発刊する。 ※久米正雄や松岡譲の影響で、創作に興味を持ち始める。 ※第三次『新思潮』では、柳川隆之介の筆名で、アナトール・フランスやイエイツの翻訳や、『老年』『青年と死』などを発表したが、この頃はまだ、作家になると言う考えまで結びついていなかった。 7月20日、千葉県一宮に滞在する。 (~8月下旬) ※ここでの滞在中、龍之介の初めての彼女と言われる、吉田弥生に手紙を出している。だが、弥生が私生児であること、士族の娘でないこと、龍之介と同じ明治25年3月生まれであることなどを理由に、芥川家からは反対された。また、弥生に婚約者がいたこともあり、翌年破局した。龍之介はこの恋愛を通じて、人間の醜さ、エゴイズムを知った。 ※現実とかけ離れた世界に目を向けようと、筆を執ったのが『羅生門』や『鼻』であると言われている。 9月、第三次『新思潮』廃刊となる。 10月末、一家は北豊島郡滝野川町字田端435番地(現在の東京都北区田端)に転居する。 ※この地が龍之介の終の棲家となる。(下宿・一時的な静養を除く) ※この頃、『ジャン・クリストフ』を愛読している。 | 2月「バルタサアル」 4月「大川の水」、「『ケルトの薄明』より」、「未来創刊号」 5月「老年」、「紫天鵞絨」、「桐」 6月「春の心臓」 7月「薔薇」 9月「青年と死と」、「客中恋」 10月「若人」、「クラリモンド」 |
1915年 (大正四年) 23歳 | 8月3日、井川恭の出身地・松江に出かけ、松江市内の一軒屋に滞在する。 ※弥生との恋愛に破れ、傷を癒すための滞在だと言われている。 ※この松江滞在中に書いた『松江印象記』は、地元の新聞紙・松陽新報に掲載された。これが本名で書いた初めての文章である。 11月、『帝国文学』に『羅生門』を発表する。 ※龍之介は自信作だと思っていたが、世評にはいたらなかった。 12月初旬、大学の同級生であった林原耕三の紹介で、夏目漱石の主宰する木曜会に出席するようになる。 12月、田端の開業医・下島勲の診察を受ける。 ※これがきっかけで、龍之介と下島は親しくなった。 ?月、新原家の手伝いに入っていた、吉村ちよを知り、交際するようになる。 | 2月「砂上遅日」 4月「ひょっとこ」 8月「松江印象記」 11月「羅生門」 |
1916年 (大正五年) 24歳 | 2月、第四次『新思潮』発刊。創刊号に掲載した『鼻』が夏目漱石の賞賛を受ける。 ※これが龍之介の生涯の中でもっとも感激した事件だと言われており、本格的に創作を志すきっかけとなった。 5月、はじめて原稿料を頂く。 ※その時の作品は、『虱』(雑誌『希望』に掲載)、原稿料は一枚三十銭であった。 7月、東京帝国大学文学部英文科を卒業。 ※ここでも成績は、二十人中二番であった。卒業論文は『ウィリアム・モリス研究』であった。 ※卒業後はそのまま大学院に在籍したが、出席せず、退学届けも出さなかったため、除籍処分となった。 8月17日、千葉県一宮に滞在。 (~9月2日) 9月、『猿』『創作』を『新思潮』に、『芋粥』を『新小説』に発表する。 10月、『芋粥』を『中央公論』発表する。 ※『中央公論』は、当時文壇への登竜門と言われていた。龍之介はこのことを「この頃僕も文壇へ入籍届けだけは出せました」と手紙に書き、原善一郎に送っている。 11月、畔柳都太郎の紹介で、横須賀にあった海軍機関学校の嘱託職員となる。 ※鎌倉の野間西洋洗濯店の離れに下宿しながら、横須賀に通った。月給は六十円。担当は英語。教え方の丁寧さや、時折交える雑談に定評があり、生徒からの評判はよかった。 12月9日、夏目漱石死去。 ※龍之介は江口かんとともに受付を務めた。 ※文壇デビューのきっかけとなった師・夏目漱石の死によるショックは大きく、葬儀後しばらくは「精神的にも肉体的にも披露したという何だかぽかんとし」た気分の日々が続いていた。 12月?日、塚本文との婚約が成立する。 ※塚本文は、龍之介の中学時代の親友・山本喜與司の姪であり、龍之介は中学時代から文のことを知っていた。 | 1月「松浦一氏の『文学の本質』について」 2月「鼻」、「編輯(校正)後に」 4月「孤独地獄」 5月「父」、「虱」 6月「酒虫」、「翡翠」 8月「仙人」、「薄雪双紙」、「野呂松人形」 9月「芋粥」、「猿」、「創作」 10月「手巾」、「出帆」、「ジアン、クリストフ」 11月「煙管」、「煙草と悪魔」、「駒形より、藤娘」 |
1917年 (大正六年) 25歳 | 1月、『MENSURA ZOILI』を『新思潮』に、『道祖問答』を大阪朝日新聞に発表する。 3月、この月の<漱石先生追慕号>をもって、第四次『新思潮』廃刊となる。この際に龍之介は、『葬儀記』を書いた。 3月、佐藤春夫を知る。 4月12日、養父・道章と京都・奈良旅行をする。 (~14日) 5月、第一短編集『羅生門』が阿蘭陀書房から刊行される。 ※この『阿蘭陀書房』は、北原鉄雄(北原白秋の弟)が経営していた出版社であった。 ※装丁は龍之介自身がなし、タイトルの文字は菅虎雄に依頼した。「夏目漱石先生の霊前に献ず」と前書きし、扉には龍之介が好きだった「君看雙眼色 不語似無愁」という漢詩が入れられた。 6月20日、軍艦金剛に乗り、山口県由宇(現在の岩国市由宇町)まで出張する。 (~6月24日) ※この帰りに錦帯橋を訪れ、遠い山奥にある祖先の故郷(玖珂郡生見村・現在の岩国市美和町)に思いを馳せたそうだ。 6月27日、日本橋レストラン・鴻ノ巣にて、出版記念会『羅生門の会』が開催された。 ※この会の発起人は佐藤春夫であった。当日の参加者は23人で、「若いジェネレーションの文壇への出発の新しい宣告というようなものが強く流れていた」そうである。 9月、鎌倉から横須賀の尾鷲梅吉方へと下宿先を移した。 10月20日、『戯作三昧』を大阪毎日新聞に連載。 (~11月4日) 11月、短編小説集『煙草と悪魔』を刊行。 | 1月「MENSURA ZOILI」、「代表歌選、微明」、 「尾形了斎覚え書」、「運」、「道祖問答」 2月「新春文壇の印象」 3月「忠義」、「貉」、「葬儀記」、「偸盗」 5月「羅生門」、「羅生門の後に」 6月「さまよえる猶太人」 7月「私と創作」 8月「産屋」、「蚊帳の中の蚊」、「私の文壇に出るまで」 9月「二つの手紙」、「或る日の大石内蔵之助」、 「田端日記」 10月「蛙」、「女体」(この2作品は「蛙と女体」として発表)、「片恋」、「黄梁夢」、「戯作三昧」 11月「はっきりした形をとる為めに」、「ほんもののスタイル」、「創刊号の歌に就て」 「煙草と悪魔」 12月「痛感した危険」 |
1918年 (大正七年) 26歳 | 1月、『新小説』に『西郷隆盛』を、『新潮』に『首が落ちた話』を発表する。 1月13日、日本橋レストラン・鴻ノ巣で催された日夏耿之介の第一詩集『転生の頌』出版発表会に出席する。 ※この時、室生犀星を知った。 2月2日、田端・自笑軒にて、塚本文との結婚式を挙げる。 ※龍之介は「新思潮創刊当時の情熱が又かえって来たような気がする」と、創作意欲の高まりを見せていた。 3月29日、妻・文と伯母・フキと共に、鎌倉大辻町での生活を始める。 ※このときの家賃は18円であった。 3月、大阪毎日新聞社社友となる。 ※条件は ・雑誌に小説を発表することは自由。 ・新聞は大阪毎日新聞・東京日日新聞以外には執筆しない。 であり、報酬は月額五十円であった。 4月『世之助の話』を『新小説』に、5月『袈裟と盛遠』を『中央公論』に発表する。 5月1日、『地獄変』を大阪毎日新聞に連載する。 (~5月22日) ※これが社友契約第一作目となった。 5月、『蜘蛛の糸』を『赤い鳥』に発表する。 5月、この頃から句作をはじめ、高浜虚子に師事するようになる。 5月30日、江田島へ出張する。宇治・奈良を経て帰郷する。 (~6月上旬) 7月、『鼻』を春陽社から刊行する。 7月、『開花の殺人』を『中央公論』に発表する。 ※この作品は、<芸術的新探偵小説>特集に掲載されたが、『早稲田文学』誌上で酷評された。 9月、『奉教人の死』を『三田文学』に発表する。 ※この作品の原点を巡って、キリシタン研究の収集家に反響を呼んだ。 10月、『枯野抄』を『新小説』に発表する。 10月、『邪宗門』を東京日日新聞に連載する。 (~12月) ※この頃、小島政二郎を通じて、慶應義塾大学からの招聘の話があり、履歴書を提出したが、実現されなかった。 | 1月「首が落ちた話」、「西郷隆盛」、 「英雄の器」、「良工苦心」、「文学好きの家庭から」 2月「傍観者より」、「南瓜」 3月「浅春集」 4月「世之助の話」、「袈裟と盛遠」 5月「文芸雑話 饒舌」、「ババベックと婆羅門行者」、 「イズムと云ふ語の意味次第」、「人の好い公卿悪」(後に「豊島与志雄氏の事」と改題)、「地獄変」、「眼に見るやうな文章」 6月「ホトトギス『雑詠』欄」 7月「蜘蛛の糸」、「鼻」、「開化の殺人」、「京都日記」、「『結婚の前』の評判」、「信濃の上河内」、「私の好きな夏の料理」、「私の好きな夏の女姿」 9月「奉教人の死」、「虚子庵小集」 10月「枯野抄」、「邪宗門」、「私の嫌いな女」 11月「るしへる」、「或悪傾向を排す」、「私の創作の実際」 12月「袈裟と盛遠の情交」、「俳画展覧会を観て」、「一番気乗のする時」 |
1919年 (大正八年) 27歳 | 1月、『あの頃の自分の事』を『中央公論』に、『毛利先生』を『新潮』に、『犬と笛』を『赤い鳥』にそれぞれ発表する。 1月、第二短編小説集『傀儡師』を新潮社から刊行する。 3月、海軍機関学校を退職する。 3月12日、妻・文と入籍する。 3月16日、実父・新原敏三、流行性感冒のため死去する。 3月、大阪毎日新聞社の社員となる。 ※出社義務はなく、年に数回の小説を書き、大毎・東日以外の新聞には寄稿しない、原稿料はゼロ、報酬は月額130円だった。 ※菊池寛も同時に入社し、寛の月給は月額90円だった。 4月、鎌倉を引き上げ、田端の自宅に戻る。 ※書斎を『我鬼窟』とし、日曜日を面会日とした。この『我鬼窟』の扁額を書いたのは菅虎雄である。小島政二郎、南部修太郎、中戸川吉二、佐佐木茂索、瀧井孝作などの新進気鋭作家の談論でにぎわった。 5月6日、菊池寛らと長崎旅行へ行き、永見徳太郎の家に滞在する。 (~5月10日) ※この時、長崎県立病院精神科部長であった斎藤茂吉と会った。 6月10日、万世橋のみかどで催された、岩野泡鳴の『十日会』に出席する。 ※この時、龍之介がしげ子と出会う。一時期は『愁人』と呼ぶほど愛したが、後にしげ子の動物的本能を憎悪、絶縁後も「この子あなたに似てないかしら?」などとしつこく言い寄ってくる姿に辟易し、『狂人の娘』と呼んだ。 6月30日、『路上』を大阪毎日新聞に連載する。 (~8月8日) 7月末、みかどで催された江口かんの第一短編小説集『赤い矢帆』の出版記念会に出席する。 ※この時、宇野浩二を知った。 11月8日、神田青年会館で、菊池寛らとともに龍之介はじめての講演を開く。 ※当時、龍之介の講演料は1時間50円程度であった。 ※この頃、小穴隆一を知り、晩年まで交際するようになった。 | 1月「毛利先生」、「兄貴のような心持」、 「小説を書き出したのは友人の煽動に負ふ所が多い」、「犬と笛」、「あの頃の自分の事」、「樗牛の事」、「女形次第で」、「予の苦心する点」、「『心の王国』の跋」、「新年の傑作は誰の何?」「傀儡師」 2月「開化の良人」 3月「きりしとほろ上人伝」 4月「余の愛読書と其れより受けたる感銘」 5月「蜜柑」、「沼地」(この2作品は「私の出遭った事」として発表)、「龍」、「余の文章が始めて活字となりし時」 6月「何よりも先に詩人」(後に「佐藤春夫氏の事」と改題) 7月「疑惑」、「後世」、「バルタサアル、『バルタサアル』の序」 8月「忘れられぬ印象」 9月「じゅりあの・吉助」、「妖婆」 10月「春の心臓」、「『人魚の嘆き・魔術師』広告文」、 「もう七八年前に」、「我鬼句抄」 11月「陰影に富んだ性格」(後に「江口渙氏の事」と改題)、「芸術その他」、「春草会にて」、「龍村平蔵氏の芸術」 12月「本年度の作家、書物、雑誌」、「大正八年度の文芸界」 |
1920年 (大正九年) 28歳 | 1月、『舞踏会』を『新潮』に、『鼠小僧次郎吉』を『中央公論』に、『動物園』を『サンエス』に、『尾生の信』を『中央文学』に、それぞれ発表する。 1月、第四短編集『影燈籠』を春陽堂から刊行する。 3月30日、大阪毎日新聞に『スサノオノミコト』を連載する。 (~6月6日) 4月10日(戸籍上は3月30日)、長男・比呂志誕生。 ※命名の由来は、菊池寛の『寛』を取って、万葉仮名にしたもの。後に俳優として活躍した。 4月、『秋』を『中央公論』に、『葱』を『新小説』に、それぞれ発表する。 5月1日、東京商科大学の英文学講話会で『Story tellerとしてのE.A.Poe』の講演を行う。 5月、東京高等工業学校にて『小説の読み方』の講演を行う。 6月、槍ヶ岳に旅行する。 7月、『杜子春』を『赤い鳥』に発表する。 8月初旬、宮城県の青根温泉に滞在する。 (~9月初旬) ※この頃から、自画像として河童の絵を描き始めた。小沢碧堂から『河郎之舎』の印を貰い受けた。 10月、『お律と子等と』を『中央公論』に発表する。 11月、久米正雄、菊池寛、宇野浩二らとともに、大阪へ講演旅行に出掛ける。 ※この講演は、日本画の団体・主潮社が主催するものであった。 11月19日、中之島公会堂で『偶感』と題して講演をする。 11月、旅行の帰途、宇野浩二と木曽・諏訪へと巡る。 ※ここで宇野浩二の『ゆめ子物』のモデル・原とみと出会った。 | 1月「魔術」、「鼠小僧次郎吉」、「葱」、「舞踏会」、「有島生馬君に与ふ」、「尾生の信」、「日記のつけ方」、「動物園」、「山房の中」(後に「漱石山房の秋」と改題)、 「私の生活」、「我鬼氏の座談のうちから」、「明治座劇評」、「影燈籠」、 「影燈籠」附記 3月「大須賀乙字氏を憶ふ」、「『我鬼窟日録』より」、「素盞鳴尊」、「老いたる素盞鳴尊」(この2作品は「素盞鳴尊」として発表) 4月「沼」「東洋の秋」(この2作品は「小品二種」として発表)、「未定稿」、「秋」、「一つの作が出来上るまで」、 「骨董羹」、「私の好きなロマンス中の女性」、「四月の月評」 5月「黒衣聖母」、「或敵打の話」、「女」 6月「親し過ぎて書けない久米正雄の印象」、「中央文学の問に答ふ」、「神経衰弱と桜のステッキ」(後に「近藤浩一路氏」と改題)、「短歌雑感」 7月「南京の基督」、「杜子春」、「槍ヶ岳紀行」、「大正九年度文壇上上半期決算」、「私の好きな自然」 8月「捨児」、「彼の長所十八」、「塵労」、「秀吉と神と」(この2作品は「極短い小説二種」として発表) 9月「影」、「雑筆」、「『槐多の歌へる』推賞文」 10月「お律と子等」、「僕の好きな女」、「市村座劇評」 11月「漢文漢詩の面白味」、「私の好きな作家」、「恋愛及結婚に就いて若き人々へ」、「明治座劇評」、「大正九年の文芸界」 12月「大して怠けもせず」 |
1921年 (大正十年) 29歳 | 1月、『山鴫』を『中央公論』に、『秋山図』を『改造』に、『アグニの神』を『赤い鳥』に、『奇怪な再会』を大阪毎日新聞に、それぞれ発表する。 2月5日、東京帝国大学英文学会で、講演を行う。 ※この時の講演のテーマは、『短編作家としてのポオ』であった。 3月9日、龍之介が中国旅行に向かうため、上野の精養軒で送別会が行われる。 3月、第五短編集『夜来の花』を新潮社から刊行する。 ※因みにこの短編集のタイトルである『夜来(やらい)』は、新潮社のある『矢来(やらい)町』を捩ったとされている。 ※このときの装丁は、小穴と小沢碧堂によるもの。これ以後、龍之介の作品集はほぼ小穴の装丁になった。 3月14日、『夜来の花』出版記念会。 3月19日、東京を出発する。 3月28日、大阪毎日新聞社から海外視察員として中国に特派される。 (~7月下旬) ※3月28日、門司出発。上海→江南→長江→廬山→武漢→洞庭湖→長沙→北京(6月14日)→天津(7月12日)→朝鮮のルートで、4ヶ月に渡る長旅だった。後に書かれる『上海游記』・『江南游記』にて詳しく書かれている。 ※筑後丸にて福岡県門司を出帆し、上海到着の翌日から、乾性肋膜炎を起こし、約三週間里見病院に入院。退院後、大阪毎日新聞社記者の村田孜郎や島津四十起、学生時代からの友人・ジョーンズ、西村貞吉らの案内で、観劇やしない見物に出かけたり、鄭孝胥、章炳麟、李人傑などに会った。上海から杭州、西湖、蘇州、揚州、南京、蕪湖、廬山、洞庭湖などを廻り、漢口に約一週間滞在後、京漢鉄道で洛陽を経て、北京到着。 ※北京では『支那服』を着て、毎日東奔西走し、市内名勝を見物したほか、梅蘭芳、楊小楼などの芝居を見たり、辜鴻銘などに会った。 ※旅行中は上海・南京で発病、治療を受けた他、各地で暴動が起こり、しばしば旅程を変更せざるを得なかった。そして、昼間は諸所見て歩き、夜は歓迎会に出たり、ノートを作ったりする多忙な生活を送ったため、無理がたたり、帰国早々病床に就いた。これが龍之介の人生で一番重い神経衰弱だったそうである。 8月17日、大阪毎日新聞にて『上海游記』の連載をはじめる。 (~9月9日) 9月、春陽堂より単行本『戯作三昧』を刊行する。 9月、『明星』の同人に誘われたが、辞退した。 10月1日、南部修太郎と共に、湯河原中西旅館に滞在する。 (~10月下旬) ※中国旅行の疲れを癒す目的での滞在であったが、神経衰弱と不眠症が治らず、弱り果てていた。 | 1月「秋山図」、「山鴫」、「妙な話」、「アグニの神」、「奇怪な再会」、「合理的、同時に多量の人間味」、「近頃の幽霊」、「帝劇劇評」 2月「点心」、「仏蘭西文学と僕」、「懸賞小品『春』と『犬に噛まれる』を選びて」、「歌舞伎座劇評」 3月「外貌と肚の底」(後に「小杉未醒氏」と改題)、「三味線も好い」、「夜来の花」、「『夜来の花』附記」 4月「往生絵巻」、「奇遇」 6月「私の好きな私の作」 8月「上海游記」 9月「母」、「戯作三昧」、「地獄変」 10月「好色」、「『チャップリン』其他」、 「『井月句集』の跋」 11月「『春城句集』の序」、「或日の大石内蔵之助」 |
1922年 (大正十一年) 30歳 | 1月、『藪の中』を『新潮』、『俊寛』を『中央公論』、『将軍』を『改造』、『神々の微笑』を『新小説』にそれぞれ発表する。 1月27日、菊池寛、小島政二郎と共に名古屋の椙山女学校で行われた文芸講演会へ行く。 1月、『江南游記』を大阪毎日新聞に発表する。 ※その後、『長江游記』『湖北游記』『河南游記』『北京游記』『大同游記』と、各々5~10回くらいの連載で執筆することを薄田泣菫と約束するが、果たされなかった。 2月、単行本『芋粥』を春陽堂から刊行する。 3月、単行本『将軍』を新潮社から刊行する。 3月、『トロッコ』を『大観』に発表する。 4月、書斎の額を『澄江堂』と改める。 ※この改名は、前年より続いた健康の衰えから心機一転をはかるためである。幼い頃に慣れ親しんだ墨田川に因んだものだそうだ。 4月初旬、養母のとも、伯母のフキとともに京都旅行をする。 4月13日、神田青年会館で行われたイギリス皇太子来朝記念英文学講演会にて、『ロビンホッド』と題した講演を行う。 4月25日、長崎に滞在する。 (~5月30日) ※龍之介二度目の長崎旅行は、蒲原春夫・永見徳太郎・渡辺庫輔らの案内によるものだった。書画骨董をあさったり、丸山遊郭で遊んだりと、のんきな日々を過ごした。 5月、随筆集『点心』を金星堂から刊行する。 5月、『お富の貞操』を『改造』に発表する。 7月27日、小穴隆一とともに、志賀直哉の自宅を訪問する。 ※この時、龍之介はスランプに陥っており、志賀が三年ほど小説を書かなかったときのことをしきりに聞きたがった。「僕は小説など書ける人間ではないのだ」と漏らしたそうである。 8月、選集『沙羅の花』を改造社から刊行する。 9月、小穴隆一が龍之介をモデルにして描いた『白衣』が二科展に出展された。 10月、『奇怪な再会』を金星堂から刊行する。 11月8日、次男・多加志誕生。 ※命名の由来は、小穴隆一の『隆』を取って訓読みにし、更に万葉仮名を当てたもの。芥川家の三兄弟の中でもっとも文学志向が強かったが、昭和20年4月に戦死している。 11月、単行本『邪宗門』を春陽社から刊行する。 ※この頃から、龍之介の健康は更に悪化し、神経衰弱、睡眠薬によるピリン疹、胃痙攣、腸カタル、心悸昂進などを病むようになった。これまで毎年必ず引き受けていた新年号も、この年末はすべて断った。 | 1月「藪の中」、「二種の形式を執りたい」、「草花、体操、習字、創作など」、「俊寛」、「将軍」、「神々の微笑」、「江南游記」、「パステルの龍」、「LOS CAPRICHOS」、「本の事」、「いろいろのものに」、「ほのぼのとさせる女」、「英米の文学上に現れた怪異」 2月「三つの宝」、「世の中と女」、「芋粥」 3月「トロッコ」、「我鬼抄」、「将軍」 4月「報恩記」、「澄江堂雑記」、「新富座の『一谷嫩軍記』」、「瓜実顔」、「仙人」、「『菊池寛全集』の序」 5月「河童」(1927年に発表したものとは異なる)、「ロビン・ホッド」、「お富の貞操」、「点心」、「『点心』自序」、「女性雑感」 6月「形」、「長崎小品」 7月「庭」、「文壇の沈滞」、「一夕話」 8月「六の宮の姫君」、「魚河岸」、「鴎外先生の事」(後に「森先生」と改題)、「沙羅の花」、 「『沙羅の花』自序」 9月「おぎん」、「読書の態度」 10月「百合」、「気鋭の人新進の人」(後に「恒藤恭氏」と改題)、「支那の画」、「露西亜舞踊の印象」、 「奇怪な再会」 11月「コレラと漱石の話」(後に「コレラ」と改題)、「わが散文詩」、「邪宗門」、 「邪宗門の後に」 12月「暗合の妙に驚く」(後に「暗合」と改題)、「『桂月全集』第八巻の序」 |
1923年 (大正十二年) 31歳 | 1月、菊池寛が『文藝春秋』を創刊する。 ※龍之介は創刊号から大正14年9月号まで、『文藝春秋』の巻頭で『侏儒の言葉』を連載した。 2月、『プロレタリア文芸の可否』を『改造』に発表する。 3月16日、湯河原中西旅館に滞在する。 (~4月中旬) 5月、『保吉の手帳から』を『改造』に発表する。 ※この頃から、龍之介の私小説である、俗に言う『保吉もの』が増えてくる。 5月、第六短編集『春服』を春陽堂から刊行する。 6月7日、香取秀真から『澄江堂』の印を贈られる。 6月8日、多加志が消化不良気味で宇津野病院に入院する。 ※この時の様子が、『子どもの病気』に描かれている。 8月1日、夏期大学の講師として山梨県秋田村(現在の山梨県北杜市)の法光寺に赴く。 ※この時の演題は『文芸について』。 8月、渡辺庫輔、小穴隆一と共に、鎌倉駅前の平野屋旅館に滞在する。 ※この時、岡本一平・かの子夫妻と知り合う。 9月、関東大震災で被災する。 ※被害は少なかったそうであるが、古美術・古書の亡失を惜しんだ。 10月、室生犀星の紹介で、堀辰雄を知る。 ※この時、辰雄は第一高等学校在学中であった。 秋~翌年春、葛巻義敏と二人で、回覧雑誌『一束の花』を刊行する。 ※龍之介は『おれの詩』『商賈聖母』『皇帝と皇子』などを書いた。 12月17日、京都に旅行する。 (~25日) ※この時、小山内薫、志賀直哉、瀧井孝作、そして龍之介の親友の恒藤恭とも知り合った。 | 1月「侏儒の言葉」、「線香」、「東京に生れて」、「教訓談」、「書斎」(後に「漱石山房の冬」と改題) 2月「あらゆる至上主義に好意と尊敬とを持つ」、「当に存在すべきものである」 3月「雛」、「一番鶏の声」、「猿蟹合戦」、「色目の弁」、「八宝飯」、「二人小町」 4月「おしの」、「私が女に生まれたら」 5月「保吉の手帳」、「春服」、「『春服』の後に」 6月「四谷怪談」、「その後製造した句」、「放屁」、「『女と影』読後」、「思ふままに」、「ピエル・ロティの死」 (「放屁」以降の作品は「思ふままに」としてまとめて発表された) 7月「旅と女」 8月「子供の病気」、「白」、「女性改造談話会」、「東洋趣味」、「大変悧口な」、「創作合評」 9月「春」、「洞庭舟中」 10月「お時宜」(後に「お時儀」と改題)、「大震前後」(後に「大震日録」と改題)、「大震雑記」、「地震に際せる感想」、「古書の消失を惜しむ」、「鸚鵡」、「廃都東京」 11月「妄問妄答」、「芭蕉雑記」、「創作合評」、「創作の苦心と文人趣味」 12月「あばばばば」、「澄江堂句抄」 |
1924年 (大正十三年) 32歳 | 1月、『一塊の土』を『新潮』に、『三右衛門の罪』を『改造』に、『或敵討の話』を『サンデー毎日』に、それぞれ発表する。 4月、千葉県八街に紛擾史実地調査のため赴く。 ※この紛擾を扱った『美しい村』を書いたが、未完に終わった。 5月15日、金沢の室生犀星のところへ旅行をする。 (~22日頃) 5月、玄文社から龍之介の王朝物作品を集めた『泥七宝』を刊行する計画が上がったが、玄文社が倒産したため、未遂で終わった。 6月10日、全国教育者協議会の講演を、東京高等師範学校付属小学校(現在の筑波大学付属小学校)にて行う。 ※この時の論題は『明日の道徳』であった。 7月、第七短編集『黄雀風』を新潮社から刊行する。 7月、『The Modern Series of English Literature』全七巻を編集する。 (~翌年3月) 7月22日、避暑と仕事を兼ねて、軽井沢つるや旅館に滞在する。 (~8月下旬) ※室生犀星と同宿であった。 ※軽井沢では、谷崎潤一郎、堀辰雄、山本有三と交友した。また、龍之介より14歳年上の松村みね子(本名:片山広子)と出会い、彼女の文学的才能に惹かれていった。後に『越し人』『相聞』などの抒情詩を作り、深入りする前に脱却した。 ※この時、社会主義の文献をかなり系統的に読んだ。 9月、随筆集『百艸』を新潮社から刊行する。 10月、『報恩記』を而立社から刊行する。 10月、叔父(道章の弟)竹内顕二が亡くなる。 10月、義弟(妻・文の弟)塚本八洲が喀血をする。 ※これらの出来事が重なったこともあり、龍之介の健康状態は次第に衰弱していく。また、この年の10月から年明けまで、一編も小説を発表しなかった。 12月、庭に書斎を増築する。 | 1月「一塊の土」、「一家の風格が出来た」(後に「久米正雄氏」と改題)、「新しい機運」、「将来も亦在来通り」、「不思議な島」、「糸女覚え書」、「三右衛門の罪」、「或敵打ちの話」(後に「伝吉の敵打ち」と改題)、「蒐集」、「若し千円をお年玉に貰ったら」、「野人生計の事」(後に「野人生計事」と改題) 2月「金将軍」、「梅香に対する感情」、「霜夜」、「紅薔薇のようなネクタイ」(後に「谷崎潤一郎氏」と改題) 3月「蛇笏君と僕と」(後に「飯田蛇笏」と改題)、「隅田河」(後に「金春会の『隅田川』」と改題)、「僻見」、「大久保湖州」(この2作品は「僻見」として発表された)、「家庭に於ける文芸書の選択に就いて」、「佐藤の誤解」(後に「佐藤春夫氏」と改題) 4月「第四の夫から」、「文章」、「寒さ」、「少年」、「解嘲」、「怪談会」、「正岡子規」、「春服」(普及版)、「普及版『春服』の前に」 5月「或恋愛小説」、「文反古」、「リチャード・バアトン訳『一千一夜物語』に就いて」、「『文芸趣味』の序」 6月「『仮面』の人々」、「案頭の書」、「新緑の庭」、「春の日のさした往来をぶらぶら一人歩いてゐる」、「微哀笑」(後に「久保田万太郎氏」と改題)、「寄席」 7月「桃太郎」、「鷺と鴛鴦」、「新潮合評会」、「黄雀風」、「『黄雀風』の後に」、「几菫と丈艸と」(後に「『続晋明集』読後」と改題)、「The Modern Series of English Literature序」 8月「蒐書」、「格さんと食欲」 9月「十円札」、「長江」(後に「長江游記」と改題)、「軽井沢日記」、「百艸」、 「文芸一般論」 10月「新潮合評会」、「詩集高麗の花」(後に「『高麗の花』読後」と改題)、「文芸鑑賞講座」、「明日の道徳」、「報恩記」 11月「偽者二題」、「装幀に就いての私の意見」、「プロレタリア文学論」、「『春の外套』の序」、「澄江堂余墨」 |
1925年 (大正十四年) 33歳 | 1月、『大導寺信輔の半生』を『中央公論』に、『馬の脚』を『新潮』に、『早春』を大阪毎日新聞に発表する。 2月、萩原朔太郎が田端に引っ越してくる。 ※朔太郎は三ヶ月ほどで田端を去ったが、龍之介と朔太郎の親交は生涯続いた。 3月、小山内薫・久保田万太郎・里見とん・谷崎潤一郎・水上瀧太郎とともに『泉鏡花全集』の編纂に携わる。 ※龍之介はその宣伝のため、『鏡花全集の特色』『『鏡花全集』目録開口』を書いた。 4月中旬、修善寺温泉・新井旅館に滞在する。 (~5月6日) ※この時、泉鏡花夫妻に会った。 4月、「現代小説全集」の第一巻として『芥川龍之介集』を新潮社より刊行する。 7月12日、三男・也寸志誕生。 ※命名の由来は恒藤恭の恭を訓読みにし、万葉仮名を当てた。この也寸志は後に音楽家となった。 ※この頃友人に「体は暑さ寒さに応え易くなり大いに憮然」と手紙に書いて送っている。 8月下旬、軽井沢つるや旅館に滞在する。 (~9月中旬) 9月初旬、風邪を引いて、一週間床に就く。 10月、興文社の依頼により、『近代日本文芸読本』全五巻の編纂に携わる。 ※大正12年9月に興文社より依頼を受け、2年掛かりで完成させてものであった。龍之介はこの編纂に凝っており、明治期からの作家約450人の作品を収録したが、売れ行きは芳しくなく、無断収録や印税問題、それにまつわるデマなどでかなり神経を悩まされた。 11月、紀行集『支那游記』を改造社から刊行する。 ※この頃、俳句や詩にも興味を持った。健康はますます悪化していった。 | 1月「大導寺信輔の半生」、「早春」、「馬の脚」、「新潮合評会」、「澄江堂雑記」、「俊寛」、「出来上った人」、「壮烈の犠牲」、「現代十作家の生活振り」 2月「学校友だち」、「正直に書くことの困難」、「思ってゐるありの儘を」、「芥川龍之介氏との一時間」、「新潮合評会」 3月「田端人」、「文部省の仮名遣改定案について」、「日本小説の支那訳」、「望むこと二つ」、「越びと」 4月「春」、「念仁波念遠入礼帖」、「日本の女」、「澄江堂雑詠」、「芥川龍之介集」(現代小説全集第一巻)「芥川龍之介年譜」、「人及び芸術家としての薄田泣菫氏」 5月「雪」、「詩集」、「ピアノ」、「鏡花全集目録開口」、「鏡花全集の特色」、「女?」「鏡花全集に就いて」 6月「北京日記抄」、「澄江堂雑詠」、「温泉だより」、「わが俳諧修業」 7月「『わたくし』小説に就いて」、「結婚難並びに恋愛難」、「文章論」 8月「『太きょ集』読後」、「Gaity座の『サロメ』」、「変遷その他」、「ポーの片影」 9月「藤澤清造君に答ふ」、「海のほとり」、「尼提」、「死後」、「鄰の笛」、「才一巧亦不二」、「我机」 10月「『ふゆくさ』読後」、「病牀雑記」、「『笑ひきれぬ話』の序」 11月「『私』小説論小見」、「『未翁南甫句集』の序」、「支那雑記」、 「『支那雑記』自序」、「『近代日本文芸読本』縁起・序・凡例」、「瀧田哲太郎君」、「『蕪村全集』の序」 12月「瀧田君と僕と」、「澄江堂雑記」、「一人一語」、「拊掌談」、「序に代ふる小戯曲『直木三十五』」(後に「『新作仇討全集』の序」と改題) |
1926年 (大正十五年 昭和元年) 34歳 | 1月、『湖南の扇』を『中央公論』に、『年末の一日』を『新潮』に発表する。 1月15日、胃腸病、神経衰弱、不眠症、痔疾などの併発に伴い、湯河原中西旅館に滞在する。 (~2月19日) ※「書きたきものも病弱のため書けず、苦しきことは病弱の為一さう苦しみ多し」と書いた手紙を斎藤茂吉に送っている。 2月、『地獄変』『或日の大石内蔵助』を『文藝春秋』出版部から刊行する。 3月5日、室賀文武から聖書を受け取る。 ※「人生如何に生くべきか」に悩み、宗教に解決を求めようとしたが、神の奇跡を信じることができなかった。 4月23日、静養のため、鵠沼の東屋旅館に、文・也寸志とともに滞在する。 (~翌年1月2日) ※改造社より印税を200円前借りしての鵠沼滞在であった。だが、ひっきりなしに訪れる来客や、周りのうるさく騒いでいる音、ピアノの音などに落ち着かず、睡眠薬の量は増すばかりだった。 6月、『点鬼簿』の<父、母、僕>を書き上げる。 ※この作品を書いているとき、額から汗を流し、一行も筆が進まない状態で、苦しみながら書いていた。 7月中旬、斎藤茂吉の勧めもあり、東屋旅館近くの借家(イの四号)に引っ越した。 9月、『点鬼簿』の<僕>を廃棄して、<姉>を加筆する。 ※加筆分数枚を書き上げるのに何日も掛かり、「前途暗澹の感」を抱いた。 10月、『点鬼簿』を『改造』に発表する。この頃、『鵠沼雑記』を書く。 ※『鵠沼雑記』は遺稿となった。 12月、随筆集『梅・馬・鶯』を新潮社より刊行。 ※この頃の龍之介は、アヘンエキス、ホミカ、ベロナール、下剤などの薬を食って生きているような状態だった。 | 1月「湖南の扇」、「年末の一日」、「翻訳小品」、「鴨猟」、「風変わりな作品二点に就て」、「身のまはり」、「文章と言葉と」、「虎の話」 2月「病中雑記」、「二人の友」、「新潮合評会」 3月「一人の無名作家」、「『輪廻』読後」、「『若冠』の後に」 4月「追憶」、「剛才人と柔才人と」、「驢馬『近詠』欄」 5月「横須賀小景」、「東西問答」 7月「カルメン」、「発句私見」、「近松さんの本格小説」、「又一説?」、「亦一説?」、 「棕櫚の葉に」 8月「囈語」 9月「春の夜」 10月「点鬼簿」、「島木さんのこと」(後に「島木赤彦氏」と改題) 11月「O君の新秋」、「夢」、「鴉片」、「槐」、「久米との旧交回復のくさびに」、 「猪・鹿・狸」 12月「梅・馬・鶯」、「『梅・馬・鶯』小序」 |
1927年 (昭和二年) 35歳 | 1月2日、田端の実家に帰る。 1月4日、義兄(姉・ヒサの夫)、西川豊の家が全焼する。 ※西川は元弁護士であり、この当時は偽証教唆によって失権しており、高利の金を借りていた。このため、時価7000円の家に3万円の火災保険が掛けられていた。 ※二階の押入れからアルコール瓶が発見され、西川に放火の嫌疑が掛けられていた。 1月6日、西川豊が、千葉県山武郡の土気トンネル付近にて鉄道自殺をする。 ※龍之介はその後始末と、西川が背負っていた莫大な借金の返済、扶養家族の増加などに苦しむこととなった。 2月、帝国ホテルに投宿し、『河童』を執筆する。 2月19日、歌舞伎座で催された、改造社の観劇会に出席する。 2月27日、改造社の『現代日本文学全集』宣伝のため、佐藤春夫とともに、佐藤春夫とともに、大阪へ講演旅行をする。 (~28日) ※芦屋の谷崎潤一郎邸で一泊した。 3月28日、以下の内容の手紙を斎藤茂吉に送る。 「この頃又半透明なる歯車あまた右の目の視野に回転する事あり、或いは尊台の病院の中に半生を了ることと相成るべき乎。唯今の小生に欲しきものは、第一に動物的エネルギイ、第二に動物的エネルギイ、第三に動物的エネルギイのみ」 ※この頃、興文社の『小学生全集』と、アルスの『児童文庫』との間で、その企画をめぐって互いに誹謗し合う泥仕合が行われた。興文社の全集に編集人として名を連ね、アルスの『中国童話集』の執筆も引き受けていた龍之介は、苦しい立場におかされていた。 4月7日、帝国ホテルで心中を図ろうとする。 ※心中相手にしようとしていた、平松ます子が来なかったため、未遂に終わった。 4月、『改造』誌上での『文芸的な、余りに文芸的な』をもって、谷崎潤一郎との文芸論争を繰り広げた。 4月16日、菊池寛宛の遺書を書く。 ※この頃からひそかに、知人への告別を行っていた。 5月、『たね子の憂鬱』を『新潮』に、『本所両国』を『東京日日新聞』に、『今昔物語について』を新潮社の『日本文学講座』にてそれぞれ発表する。 5月13日、改造社の『現代日本文学全集』宣伝のため、里見とんとともに講演旅行をする。 ※10日間で仙台・盛岡・函館・札幌・旭川・小樽を巡る、当時としてはかなりのハードスケジュールだった。(~22日) ※この時の聴衆に、太宰治や小林多喜二、伊藤整、小熊秀雄などがいたとされている。 5月24日、単身で旧制新潟大学での講演。 ※龍之介にとっては人生最後の講演となった。演題は『ポオの一面』。 ※この頃、切支丹ものを纏めて一冊にする計画があり、内田魯庵に装丁をお願いしたが、実現されなかった。 5月末、宇野浩二が発狂する。 ※龍之介は、宇野の親友・広津和郎らとともに、宇野の面倒を看た。宇野の発狂は、龍之介にとってショックが大きかった。 6月、第八短編集『湖南の扇』を文藝春秋社から刊行する。 6月20日、『或阿呆の一生』を脱稿する。 ※この作品は遺稿となり、龍之介死後の昭和2年10月、『改造』にて発表された。 7月20日、8月に行われる予定だった、民衆夏季大学の講師依頼に対して「ユク アクタガハ」と電報を打つ。 7月21日、宇野浩二の留守宅を訪ねる。 ※宇野を見舞うとともに、家族の生活費のことなどについて話し合った。 7月23日、『続西方の人』を書き上げ、夜半に「自嘲 水洟や 鼻の先だけ 暮れ残る」の短冊を翌朝下島に渡してくれるよう、フキに依頼した。 7月24日未明、田端の自宅にて服薬自殺。 ※使われた薬剤は睡眠薬(ヴェロナール、ジャール)とも青酸カリとも言われている。 ※枕元には『聖書』が置かれており、妻や子らに宛てた遺書があった。急を聞いて、下島勲、小穴隆一らが駆けつけてきたが、午前七時過ぎに死の告知が行われ、枕元で小穴がデスマスクを描いた。 7月24日夜、家族・友人らによって通夜が行われる。 7月27日、谷中斎場にて葬儀が行われる。 ※先輩総代・泉鏡花、友人総代・菊池寛、文芸家協会代表・里見とん、後輩代表・小島政二郎が弔辞を述べた。 7月28日、日暮里火葬場にて骨上げが行われる。 ※遺骨は染井の慈眼寺境内に葬られた。墓は意志に従って、平素用いていたビロードの唐ちりめんの座布団をかたどり、「芥川龍之介墓」と刻まれた清楚なもの。石碑の字は小穴隆一の筆による。 ※命日は、龍之介が愛し、作品にも描かれた河童から、『河童忌』と呼ばれている。 11月、『芥川龍之介全集』全八巻が岩波書店から刊行され始める。 (~昭和4年2月完結) ※龍之介は文宛ての遺書に、師の夏目漱石と同じ岩波書店から自分の全集を出して欲しいと書いている。 12月、随筆集『侏儒の言葉』が文藝春秋社から刊行される。 | 1月「悠々荘」、「彼」、「彼・第二」、「玄鶴山房」、「貝殻」、「文芸雑談」、「萩原朔太郎君」、「或人から聞いた話」(後に「或社会主義者」と改題) 2月「鬼ごっこ」、「新潮合評会」、「僕は」、「その頃の赤門生活」、「藤森君の『馬の脚』のことを話せと言ふから」 3月「蜃気楼」、「河童」、「芝居漫談」、「軽井沢で」、「徳富蘇峰氏座談会」、「都会で」、「註文無きに近し」、「少時からの愛読者」、「小説の読者」 4月「三つのなぜ」、「春の夜」、「誘惑」、「文芸的な、余りに文芸的な」(後に「続 文芸的な、余りに文芸的な」と続く)、「『庭苔』読後」、「獄中の俳人」、「食物として」、「今昔物語鑑賞」 5月「たね子の憂鬱」、「耳日記」、「僕の友だち二三人」、「『道芝』の序」、「無題」、「本所両国」、「漱石先生の話」 6月「歯車」、「晩春売文日記」、「新潮合評会(新聞記者と作家の会談記)」、「二人の紅毛画家」、「『我が日我が夢』の序」、「堺利彦・長谷川如是閑座談会」、「女仙」、「素描三題」、「古千屋」、「しるこ」、「湖南の扇」、「講演軍記」 7月「冬と手紙と」、「三つの窓」、「『日露芸術家の会談記』後記」、「柳田国男・尾佐竹猛座談会」、「或る旧友へ送る手記」、「薄田氏への手紙」 8月「続芭蕉雑記」、「東北・北海道・新潟」、「西方の人」、「風琴」、「新潮合評会」、「内田百閒氏」 9月「続西方の人」、「闇中問答」、「十本の針」、「小説作法十則」、「機関車を見ながら」 10月「或阿呆の一生」、「侏儒の言葉(遺稿)」 12月「侏儒の言葉」 |