或文豪の一生~芥川龍之介伝~

出生
 明治二十五年三月一日、午前八時ごろ、東京のとある牛乳屋で、ひとりの男の子が生を受けました。彼が生まれた時間は、ちょうど『辰年、辰の月、辰の日、辰の刻』と、「辰」揃いでした。この家には、ふたりの女の子がいましたが、男の子はいませんでした。待望の長男誕生に大喜びし、それも「辰」揃いの時刻に生まれたことにビックリしたお父さんは、時刻にちなみ、彼を『龍之介』と名付けました。
 龍之介のお父さんは、新原敏三(にいはらとしぞう)といいます。敏三は山口県出身で、幕末の頃に上京し、『耕牧舎』という牛乳屋の支配人となりました。今では考えられないかも知れませんが、この耕牧舎は新宿に広大な牧場を持っていたのです。龍之介のお母さんはフクといいます。このフクの旧姓が『芥川』でした。
 龍之介が生まれたとき、敏三が数え年で四十三歳、フクが数え年で三十三歳、ともに厄年でした。この時代は、『捨て子』という旧来からの迷信がありました。捨て子と言うのは、あらかじめ拾う親を決めておいて、その親の元に捨てる、儀式のようなものでした。龍之介は生まれて間もなく、敏三の仕事仲間である松村浅二郎の元に、捨て子として出されてしまいました。
 龍之介にはふたりのお姉さんがいました。ひとりは、龍之介よりも四歳年上のヒサといいます。もうひとりはソメといい、みんなからは「ハツちゃん」と呼ばれていましたが、龍之介が生まれる一年前に、六歳で亡くなりました。
 長女・ソメの死に対するショックと、長男・龍之介を捨て子として出してしまった罪悪感が積み重なり、フクはひどく苦しみ、悩むようになりました。やがて、それらの苦しみは爆発し、龍之介が生まれて半年ほどが経ったある日、突然発狂しました。
 敏三は、龍之介をヒサと同じように新原家で育てたいと思っていましたが、龍之介はまだ乳飲み子。育てる人がいません。そこで、敏三は泣く泣く、龍之介を、フクの実家である芥川家に養子に出しました。龍之介は出生の第一歩において、すでに暗い影を背負っていたのです。
 
幼少期
 龍之介が預けられた芥川家は、代々御奥坊主をつとめた、江戸時代から続く旧家でした。
 芥川家には、三人の家族がいました。フクの兄に当たる芥川道章(あくたがわどうしょう)と、道章の妻のとも。このふたりが、のちに龍之介の養父母となる夫妻です。道章は東京府の土木課で働いていました。それともうひとり、フキという女性がいました。フキは道章の妹・フクの姉で、龍之介の伯母に当たります。この芥川家に子はいませんでした。それ故に、芥川家ではみんなから『龍ちゃん』と呼ばれ、一人っ子同然に可愛がられました。とりわけ、フキは幼い龍之介に対して、牛乳を与え、毎晩抱き寝をし、誰よりも龍之介を可愛がりました。
 芥川家は、下町的な江戸趣味の濃い家庭でした。文学や美術を好み、一家を挙げて一中節を習ったり、歌舞伎をよく観に出かけていました。また道章は、俳句や盆栽にも通じていました。龍之介は物心ついた頃から本が大好きで、家の本棚にあった草双紙や、『西遊記』、『水滸伝』などを愛読していました。
 幼い頃の龍之介は、大変疳が強く、病弱な子どもでした。庭に植えてある一本の蝋梅を愛する一方で、五葉の松を不気味に思い、金箔の黒ずんだ位牌や、土偶のお狸様に恐怖を感じるような神経質さを持っていたのです。少しでも神経が高ぶると、一晩中眠れなくて、翌日には激しく熱を出してしまうほどでした。そんな龍之介を、養父母やフキはいつも心配していました。
 龍之介が五歳のとき、幼稚園に入園しました。幼稚園では病弱さと疳の強さから、よくクラスの子たちにいじめられました。日本が日清戦争に勝利し、軍事意欲が高まっていたためか、この頃の夢は海軍将校になることでした。しかし、翌年小学校に入学すると、夢は洋画家に変わって行きました。友達もたくさん出来、読書に対する情熱も高まっていきました。近所の貸本屋を始め、大橋図書館や帝国図書館などにも足を運び、滝沢馬琴・式亭三馬・十返舎一九・近松門左衛門などの江戸文学、泉鏡花・徳富蘆花・尾崎紅葉などの近代作品を多読しました。
 やがて、龍之介の欲は、それだけに留まらなくなりました。
「読んでいるだけでは物足りない。ボクもお話が書きたい!」
 そう思った龍之介は、小学五年生のとき、友人たちと『日の出界』という回覧雑誌を発刊しました。この『日の出界』で、龍之介は小説を書くだけでなく、カットや装丁なども担当しました。
 その一方で、龍之介は、『新原龍之介』という、本当の名前を知らされないまま、『芥川』という苗字と、『龍之』という、実父がつけてくれたのとは違う漢字を名乗っていました。自分の家族に対して、遠慮がちな生活を送っていました。自分を可愛がってくれる半面、この人たちはボクの本当の親ではない、そう心の中で思い続けていたのです。
 龍之介が芥川家に預けられた後も、新原家にはよく通っていました。実父の敏三は、当時では珍しいアイスクリームやラム酒をおごり、龍之介を新原家に戻そうとしていました。新原家は新原家で跡継ぎとなる男の子がいないからです。龍之介の知らないところで、芥川家と新原家は、どちらが龍之介を跡継ぎにするかで争っていました。
 龍之介が十二歳のとき、正式に『芥川龍之介』となりました。新原家には、得二(とくじ)という男の子が生まれていました。得二は、龍之介とお父さんは一緒ですが、お母さんは別の人で、新原家に手伝いに来ていたフユという女性でした。このフユは、龍之介の実母・フクの妹に当たります。得二を新原家の跡継ぎにすることと、フユを新原家に入籍させることで、静かな争いに決着がついたのです。そして何よりも、自分を実の子どものように育ててくれた芥川家から離れたくない、そんな龍之介の思いが一番強かったのでしょう。

青春時代
 龍之介が十三歳のとき、東京府立第三中学校(現在の両国高校)に入学しました。本来であれば高等小学校二年次修了で中学校への入学資格が得られるのですが、龍之介が病弱だったことと、家庭の問題で、一年遅らせて入学しました。龍之介は、同級生の山本喜誉司(やまもときよし)西川栄次郎と特に仲良くしました。特に喜誉司の家にはよく遊びに行っていました。龍之介が十五歳のとき、塚本文(つかもとふみ)という七歳の女の子が、お母さんと弟とともに、喜誉司の家に引っ越してきました。文たちは長崎県の佐世保に住んでいましたが、お父さんが日露戦争で戦死したため、親戚の喜誉司の家に引っ越してきたのです。龍之介は、幼い文をこの頃から「文ちゃん」と呼び、大変可愛がりました。
 この頃の龍之介は、文武両道で、大変真面目な生徒でした。柔道や水泳を習ったり、発火演習の小・中隊長をつとめるといった健康的な一面を持っていました。勿論、勉学や読書にも通じていて、漢文と英語を得意としました。特に漢文は、自分から勉強し、折折七言絶句を作るほどでした。読書も日本のものだけでなく、アナトール・フランスやイプセンなどを辞書を片手に読んでいました。体育の授業でランニングをしている途中に列を抜け出し、船橋屋の葛餅を食べる、ばれないようにさっと列に戻る、というお茶目な一面もありました。もっとも、口の周りにきな粉がついていて、教師から怒られていましたが。
 十八歳のとき、第一高等学校(現在の東京大学教養過程)に入学しました。この年から、中学校で優秀な成績を修めたものは無試験で入学できるという、今の推薦入試のような制度が始まりました。龍之介は学年二番の優秀な成績だったため、この制度を使い、無試験で第一高校に入学しました。そこでは、久米正雄、菊池寛、松岡譲、山本有三、土屋文明、成瀬正一、井川(のちの恒藤)恭、石田幹之助などがおり、独法科には、秦豊吉、藤森成吉、一級上の文科には豊島与志雄、山宮允、近衞文麿などといった、そうそうたるメンバーが揃っていました。龍之介は、一年生のときは寮には入りませんでしたが、二年になるとそうはいかなくなり、寮に入りました。寮では自堕落な寮生活や同級生を嫌い、本ばかりを読んでいました。寮で同室だった井川恭は、当時唯一の友人で、主に哲学のことを議論しあいました。
 高校でも二番の成績で卒業した龍之介は、東京帝国大学の英文科に入学しました。そこで講義を受けている学生におじいさんが多かったことに、龍之介はビックリしてしまいました。高校時代、唯一の友人だった井川恭は京都帝国大学の法科に進んだため、龍之介は別の友人と仲良くするようになりました。その友人たちというのが、高校時代はそれほど仲がよくなかった、久米正雄や松岡譲らです。彼らの殆どは、創作家志望でした。彼らの影響を受けて、龍之介は創作に興味を持ち始めました。
 二十二歳のとき、これらの仲間たちと一緒に、第三次『新思潮』を発刊しました。龍之介は、本名を捩った『柳川隆之介』というペンネームで、アナトール・フランスの翻訳や『老年』、『青年と死』といった小説を寄稿しました。しかし、この頃の創作はまだ趣味程度。プロで創作家になりたいという考えには、まだ結びついていませんでした。
 二十二歳の夏、吉田弥生(よしだやよい)という女性に手紙を出しました。弥生は龍之介と幼稚園・小学校で一緒の幼馴染みで、その当時はあまり仲がよくありませんでしたが、ふとしたきっかけから後に仲良くなり、交際を始めました。弥生は美人というほどの顔立ちではありませんでしたが、龍之介好みの頭のよい女性で、英語が得意でした。龍之介はこの弥生と結婚したいと本気で思っていましたが、現実はそうは行きません。芥川家からはひどく反対されました。弥生が士族の娘でないこと、私生児であること、龍之介と同い年の三月生まれであったことが理由でした。そして、弥生には既に婚約者がいました。
 龍之介は、弥生との恋に破れ、ひどく傷付きました。
 井川恭には、この恋愛を通じて、エゴイズムと人間の醜さを知った、という文面の書簡を送っています。その後、傷心を癒すため、学校の夏休みを利用して、恭の故郷である松江にしばらく滞在しました。このとき、漢文を駆使して書いた『松江滞在記』は、はじめて本名で書いた文章で、『松陽新報』という地元の新聞紙に掲載されました。
 この年の十一月、弥生との恋愛を昇華させ、王朝時代に題材を借りた短編小説『羅生門』を『帝国文学』に発表しました。今でこそ高校の教科書に載っていて、誰もが知っている名作ですが、この当時は文壇から見向きもされませんでした。
 しかし、龍之介の創作意欲は高まっていきます。大学の同級生である林原耕三に誘われて、夏目漱石の主催する『木曜会』に出席するようになりました。元々龍之介は漱石のファンで、憧れの漱石に指導を受けられるのが嬉しくてなりませんでした。
 大正五年、菊池寛・成瀬正一・久米正雄・松岡譲らとともに、第四次『新思潮』を発刊し、龍之介は『鼻』を発表しました。これを見た漱石から賞賛され、龍之介はかつてないほどの感激を受けました。これがきっかけで、本格的に創作家として活躍していきたいと思うようになりました。その後、『虱』という小説ではじめての原稿料を頂き、『手巾』が『中央公論』に掲載されました。『中央公論』に掲載されるということは、文壇に認められたといっても過言ではないことでした。
「これでボクも文壇の仲間入りを果たしたぞ!」
 龍之介の創作活動は軌道に乗り始めました。一方で、恋愛の方も順調でした。弥生との恋に破れた後は、別の女の子に気持ちをシフトさせていきました。その女の子と言うのが、山本喜誉司の家に居候していた、塚本文です。文はこのとき十六歳になっていました。龍之介は、当時としては結婚適齢期になっていた文に対し、求婚の手紙を送りました。文からの返事はOKでした。東京帝国大学を、これも二番の成績で卒業した後は、海軍機関学校の嘱託教官としての就職が決まり、英語を教えることになりました。
 しかし、そんな順風満帆な日々も、そう長くは続きませんでした。
 
人気作家へ
 大正五年の末、龍之介がもっとも尊敬していた師匠・夏目漱石が胃潰瘍で亡くなりました。師を失った龍之介にとってショックは大きく、心にぽっかりと穴が開いたような気分の毎日が続きました。まだまだ入ってくる原稿料も雀の涙程度。執筆と嘱託教官の二重生活を送らざるを得ませんでした。
「あー、づがれだ~! 寝たい~! 書きたい~!」
 龍之介は心のうちでそう思いながら、毎日、下宿のある鎌倉と、職場のある横須賀との往復をしていました。ただひとつ、励みになっていたのは、婚約者である文への思いでした。龍之介は文に対し、「もしそこにボクがいたら、いい夢を見るおまじないにそうっと瞼の上を撫でてあげます」「文ちゃんがお菓子なら頭から食べてしまいたい位可愛い」などといった、シニカルな龍之介の外見からは想像もつかないほど可愛らしい内容の手紙を送り、素直で純情な文を愛していました。文と結婚できる日を心待ちにしながら、「不愉快な二重生活」に耐えていたのです。
 執筆活動は順調でした。「新人作家現る」と新聞や雑誌で大々的に取り上げられ、一躍、時代の寵児となりました。佐藤春夫室生犀星といった、生涯親交の続く作家仲間を知ったのもこの頃です。
 大正七年二月、婚約していた塚本文と挙式をあげ、文・フキ・女中との新しい生活が始まりました。大阪毎日新聞社の社友となりました。社友契約第一号が『地獄変』です。その後も、『蜘蛛の糸』、『奉教人の死』、『枯野抄』といった佳作を次々と発表していきました。相変わらずの二重生活ではありましたが、人生でもっとも充実した時期となりました。
 翌年三月、海軍機関学校の嘱託教官を辞し、筆一本の生活に専念できるようになりました。田端の自宅に戻り、『我鬼窟』と称した自宅の二階で、読書や執筆活動につとめました。日曜日を面会日とし、龍之介と仲のよい文人は勿論、様々な文化人が龍之介のもとを訪れ、大変にぎわいました。
 龍之介の人気は、更に上がりました。甘いルックスもあいまって、龍之介のブロマイドが売られるほどでした。龍之介は、文壇のアイドルのような存在になったのです。
 その反面、高い名声から来る重圧に苦しみました。『邪宗門』、『路上』、『妖婆』といった、いくつかの中・短編に挑戦しましたが、いずれも失敗に終わりました。王朝モノのマンネリズムにも苦しみました。しかし、大正九年ごろから『舞踏会』、『秋』、『南京の基督』といった現代モノや、『アグニの神』や『杜子春』といった童話なども多く書くようになり、『芥川龍之介』という作家は、王朝モノに留まらない、幅広い作家へと進化していきました。
 一方、龍之介は、妻帯者でありながら、ひとりの女性に恋をしてしまいました。大正八年、岩野泡鳴が主催する十日会で、秀しげ子という女流作家に出会いました。龍之介は、しげ子の文学的才知と、年よりも若々しく見える姿に惚れ込み、仲良くなりたいばかりに馴れ馴れしく話しかけました。一時期はしげ子を『愁人』と呼ぶほど深く愛し合いました。しかし、絶縁後もしつこく付きまとい、しげ子に息子が生まれると「この子、あなたに似ていないかしら?」などと言い寄る、動物的本能に、龍之介は生涯悩まされ続けたのです。
 大正十年、龍之介は、大阪毎日新聞社から海外視察員として、中国に派遣されました。元々中国が好きだった龍之介には、中国趣味に触れられること、絶縁後もしつこく付きまとうしげ子から離れられることが嬉しかったそうですが、実際はまったく楽しめるものではありませんでした。休む間もなく東奔西走し、夜は宴会やノートの作成などに追われました。帰国後、神経衰弱や不眠症に激しく悩まされるようになりました。
 
苦しみ
 大正十一年春、書斎の名前を『澄江堂(ちょうこうどう)』と改めました。これは、龍之介が幼い頃から慣れ親しんだ、墨田川にちなんだものです。帰国直後からの神経衰弱から心機一転を図る目的でもありました。しかし、現実は思うようには行きませんでした。友人の小穴隆一とともに志賀直哉のもとを訪問した際、志賀が三年間小説を書かなかったことをしきりに聞きたがり、「俺は小説など書ける人間ではないのだ」と漏らしたそうです。
 龍之介の健康は、更に悪化していきました。神経衰弱、胃痙攣、腸カタル、ピリン疹、心筋梗塞……などなど数えればきりがないほどの病気を併発しました。そして、毎年引き受けていた新年号のオファーも、この年末にはすべて断ってしまいました。
 翌年、菊池寛が『文藝春秋』を創刊すると、龍之介も創刊号から、『侏儒の言葉』という、巻頭のアフォリズムの連載を開始しました。この頃から、俗に『保吉もの』と纏められる私小説を発表し始めました。これまでの龍之介は、私小説を書くことを嫌っていました。自己の経験を基に書くものでも、大抵はフィクションに題材を借りていたのです。しかし、誰もが私小説を書いている時流には逆らえませんでした。
「俺が書きたいものとは違う!」
 自分が書きたいことと、自分が書いてしまうものと、世間が求めているものとがすべて一致しないのです。
 この年の九月、関東大震災が起こりました。龍之介の家や家族に被害はありませんでしたが、一部の友人や親族は家を焼かれるなどの被害に遭い、多くの古書や美術品も消失してしまいました。龍之介はこれを大変残念がりました。
 大正十三年四月、龍之介は千葉県の八街へと取材に出かけました。八街の町で起こった紛争のことを、実際の町を訪れたり、人の話を聞いて、作品にしたためようと思ったからです。この実地調査をもとにして『美しい村』という小説を書こうとしましたが、未完成に終わってしまいました。
 この年の七月、室生犀星らと軽井沢に旅行した際、松村みね子(本名:片山広子)という女性に出会いました。みね子は龍之介よりも十四歳年上の女流歌人です。
 養父・道章の弟である竹内顕二の死と、文の弟である塚本八洲(つかもとやしま)の喀血が重なったこともあり、龍之介の健康は更に衰えていきました。ついに、この年の十月以降は一度も小説を発表できませんでした。この年の末、庭に新しい書斎が完成しました。
 大正十四年二月、田端に萩原朔太郎が引っ越してきました。朔太郎は三ヶ月ほどで田端を去りましたが、小説をあまり読まない朔太郎でも龍之介の小説を認め、朔太郎の詩集『純情小曲集』に感銘を受けた龍之介は、朔太郎の元に寝間着で駆けつけたほど、お互いを認め合いました。
 この年の秋、『近代日本文芸読本』を興文社から刊行しました。龍之介が編纂人となり、多忙を塗って二年がかりで完成させたものです。明治からの作家約四百五十人の作品を収録しましたが、あまりにも凝った内容であるためか、売り上げは芳しくありませんでした。当然、印税も僅かなものでした。そればかりか、「芥川が私の作品を無断転載した!」などと言い出す作家までいたのです。龍之介はそれらの作家に一円を支払いましたが、気遣いは裏目に出てしまいました。「芥川は印税を独り占めした」「芥川は印税で書斎を作った」などとデマを流す作家まで現れたのです。そのなかには、龍之介の先輩とも言えるベテラン作家もいました。さらには、この頃からプロレタリア文学が台頭し始め、龍之介は「ブルジョワ作家」と攻撃されるようになりました。これらの出来事が、龍之介の神経を更に悩ませました。
 龍之介の健康は、更に悪化していきました。龍之介はこの年、小学校時代の同級生である清水昌彦に対し、「生きて面白い世の中とも思わないが、死んで面白い世の中とも思わない。僕も生きられるだけ生きる。君も一日も長く生きろ」と書簡を送っていますが、本当は自分の病気が不安でなりませんでした。

自裁へ
 龍之介は、相変わらず書けなくなっていました。斎藤茂吉には「書くに足るものは中々書けず。書けるものは書くに足らず。くたばってしまえと思う事がある」と手紙を送っています。宗教に救いを求めようと、牧師から聖書を受け取ったこともありますが、神すらも信じられなくなっていました。
 喧騒な東京から離れ、静かな環境で書こうと、改造社から借金をして、妻と、まだ乳飲み子の三男・也寸志とともに鵠沼に移住しますが、鵠沼も落ち着ける場所ではありませんでした。音に過敏になっていた龍之介は、ヴァイオリン、ラジオ、蓄音機、笛、ラッパ、歌、太鼓、祭囃子など、あらゆる音や声にイライラしていました。さらには東京からの来客も多く、龍之介が落ち着ける時間はありません。ちょうど同じ頃、龍之介の異母弟・得二が出家したいと言い出し、龍之介は更に悩まされました。睡眠薬の量はますます増えていきました。そんな苦しみの中で書いたのが、自分の実父・実母・長姉について書いた『点鬼簿』です。これを書くのに、一行もペンが進まない状態で、額に汗を流しながら、何日もかかって書いたそうです。この頃の龍之介は、アヘンエキス、ホミカ、ベロナール、下剤など様々な薬を、まるでそれを主食に生きているような状態でした。
 昭和に年号が変わって間もなく、次姉・ヒサの夫、西川豊の家が全焼しました。西川は元弁護士で、偽の証言を教唆したとして、失権していました。また、高利の金を借りていました。この家は時価七千円の家に三万円の火災保険がかけられており、それによる放火だとされています。しかし、西川は、放火の嫌疑が掛けられ、周囲からひどくバッシングを受けました。その直後、西川は鉄道自殺を遂げました。龍之介は、それらの事件の後始末のため、病身に鞭打って東奔西走しなければなりませんでした。この事件によって十三人に膨れ上がった扶養家族を養うため、どうしても龍之介は書かなければならなくなりました。
 この頃から、龍之介の右の視界に、半透明の歯車のようなものがまわるようになりました。このことは『歯車』に書かれていますが、他にもちょっとした単語に敏感になり、幻覚や幻聴、被害妄想に苦しめられるようになりました。斎藤茂吉に対して、唯今の小生に欲しきものは、第一に動物的エネルギイ、第二に動物的エネルギイ、第三に動物的エネルギイのみと送っています。様々な苦しみの中でも、本当は生きたい、そう思っていたのでしょう。同時期に、興文社・文藝春秋の『小学生全集』と、アルスの『日本児童文庫』という、児童向け文学集の企画がバッティングしてしまいました。興文社は菊池寛に小学生向けの児童文学集の編集を依頼、龍之介もこれに協力しました。しかし、相手のアルスには、龍之介が第一短編集『羅生門』を出版してくれたご恩もあります。アルスの『中国童話集』の執筆を引き受ける約束もしていました。龍之介はアルスに対し、裏切った形になってしまい、龍之介の心に深く傷を残しました。
 四月七日、文の友人である平松ます子とともに帝国ホテルで心中を図る計画をしました。しかし、ます子が当日来なかったため、未遂に終わりました。龍之介の自殺願望はますます強くなり、ひそかに遺書を書いたり、友人への告別を行っていました。
 同じ頃、谷崎潤一郎と文芸論争を繰り広げました。「話の筋書きが小説の面白さを決める」と主張する谷崎に対し、龍之介は『文芸的な、余りに文芸的な』志賀直哉を例に挙げ、「筋書きのない小説でも小説として成立する」と主張しました。
 五月、里見弴(さとみとん)とともに、東北・北海道方面へ、改造社の宣伝講演旅行に出かけました。今でこそ飛行機や新幹線で簡単に行ける距離ですが、この当時は夜行列車しか手段がなく、それも何日もかかってしまいます。龍之介たちは、仙台・盛岡・函館・札幌・旭川・小樽をわずか十日間でまわるという、ハードスケジュールに追われ、昼は講演会、夜は歓迎会に出席し、ゆっくりと観光を楽しむ余裕がありませんでした。講演会の後、里見とわかれ、龍之介が単身で行った旧制新潟高校の講演が、生涯最後の講演となりました。
 龍之介の友人・宇野浩二が発狂しました。このとき、宇野の親友である広津和郎(ひろつかずお)とともに、宇野の面倒を看ましたが、心の中で自分のこと、そして実母のことを思い出しました。龍之介の母親が発狂した年齢を過ぎていたのです。「俺もお袋や宇野君のようになるかも知れない」と言った不安が龍之介を襲いました。
 七月二十日、八月に九州で行われる、民衆夏季大学の講師の依頼に対し、こう電報を打ちました。
ユク アクタガハ
 相手はこれを、来てくれるものだと捉えましたが、龍之介の行く先は九州ではなかったのです。
 翌日、宇野浩二の留守宅を訪ね、宇野夫人と家族の生活費のことなどについて話し合いました。このとき、やはり龍之介は、宇野のことを気にかけ、
「これを宇野君に着せてください」
 と、浴衣をプレゼントしました。
 七月二十三日、『続西方の人』を書き上げました。この日の夜、龍之介には珍しく家族全員で、楽しみながら食事をしました。夜遅く、自嘲 水洟や 鼻の先だけ 暮れ残ると書いた短冊をフキに預け、明日、主治医の下島勲に渡すように依頼しました。
 七月二十四日、芥川龍之介は、いつも過ごしている二階の書斎で、ある薬物を飲みました。龍之介が服用したのは、ベロナールともジャーナルとも青酸カリとも言われていますが、いまだ定かとされていません。致死量の薬物を飲み、べろんべろんに酔った龍之介は、その場に倒れてしまいました。異変に気付いた文が駆けつけましたが、時既に遅く、午前七時過ぎに死の告知が行われました。龍之介の枕元には、『聖書』が置かれていました。本当は生きたい、だけれども生きるのに苦しみ、神を信じようとしていたのでしょう。しかし、神すら信じられなかった、そんな龍之介の死に絶えた姿がそこにはあったのです。享年、数え年で三十六歳。 いつもの夏よりもずっと暑く、雨の降りしきる、そんな日曜日の朝のことでした。
 龍之介は、『或旧友へ送る手記』の中で、何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安であると述べています。その「ぼんやりした不安」が何なのかは、未だにはっきりしていません。
 三日後、谷中斎場にて、葬儀が行われ、先輩総代の泉鏡花、友人総代の菊池寛、後輩総代の小島政二郎、文芸家協会代表の里見弴が、それぞれ弔辞の言葉を述べました。
 龍之介の遺骨は、現在の豊島区巣鴨にある慈眼寺の境内に葬られました。墓は、龍之介の遺志にしたがって、いつも用いていた座布団をかたどり、小穴隆一の手で「芥川龍之介墓」と刻まれた清楚なものとなりました。
 龍之介の死から三ヶ月あまりが経った、昭和二年十一月、岩波書店から『芥川龍之介全集』が発刊されはじめました。これは、龍之介がもっとも尊敬していた師匠・夏目漱石と同じ出版社から出して欲しいという、龍之介の強い願いによるものでした。

龍之介が残したものとは……
 龍之介の死から八年後、龍之介の一番の親友であった菊池寛は、龍之介の功績をたたえ、『芥川龍之介賞』を設立しました。これは、龍之介が目指していた純文学の灯を消さぬためのものです。これまでに約百五十回が行われ、井上靖、安倍公房、松本清張、遠藤周作、石原慎太郎、大江健三郎、村上龍、辻仁成、金原ひとみ、綿矢りさ、などといった有名な純文学作家を多く輩出しました。
 平成十五年度から、高校の国語の教科書すべてに、『羅生門』が採用されるようになりました。
 何処の図書館に行っても、何処の書店に行っても、必ず一冊は、龍之介の本が置いています。そして、幼稚園児からお年寄りまで、幅広い層に読み継がれ、愛されています。
 今や、『芥川龍之介』という作家は、誰もが知っている、国民的な作家となりました。
 その一方で、「若くして自殺した作家」というネガティブなイメージが付きまとうことが多くなりました。その共通点や、あえて似せて写った肖像画から、太宰治とかぶって覚えられ、『人間失格』の作者と思われていることも少なくありません。
 確かに、龍之介はおじいさんにならずに死んでいきました。龍之介が死んだ年齢には、師匠・夏目漱石はまだデビューしていませんし、実父・新原敏三のもとにも、まだ龍之介は生まれていません。龍之介が如何に若くして死んだかがわかります。しかし、龍之介は誰よりも一生懸命生きました。
 生まれついて、実の両親から離され、大人になってからも、時折悩まされる病気や様々な問題と闘いながら生きました。もし自らの命を絶たなかったとしても、長生きできていたとは限りません。病気で死んでいたかも知れない。戦時中に戦争賛美的な作品を作らされ、戦争が終わると同時に、公職追放の憂き目に遭ったかも知れない。その失意の中で、生き、死ななければならなかったかも知れない。自殺した=敗北者とは違うと思うのです。
 ここからは個人的な意見になるのですが、龍之介の作品の中でも特に有名なものは、『羅生門』や『鼻』、『杜子春』、『蜘蛛の糸』などといった、比較的元気な時期に書かれたものです。しかし、『河童』、『歯車』、『或阿呆の一生』などといった晩年の作品にこそ、龍之介が必死で生きていた証が残されていて、多くの文学者もそのリアルな描写を評価するのではないかと思っています。芥川龍之介という作家は、世知辛い世の中を必死で生き抜くリアルな姿であり、わたしたちに生き抜く勇気を与えてくれるような、そんな存在なのではないでしょうか。

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