4・人気作家へ

 大正五年の末、龍之介がもっとも尊敬していた師匠・夏目漱石が胃潰瘍で亡くなりました。師を失った龍之介にとってショックは大きく、心にぽっかりと穴が開いたような気分の毎日が続きました。まだまだ入ってくる原稿料も雀の涙程度。執筆と嘱託教官の二重生活を送らざるを得ませんでした。
「あー、づがれだ~! 寝たい~! 書きたい~!」
 龍之介は心のうちでそう思いながら、毎日、下宿のある鎌倉と、職場のある横須賀との往復をしていました。ただひとつ、励みになっていたのは、婚約者である文への思いでした。龍之介は文に対し、「もしそこにボクがいたら、いい夢を見るおまじないにそうっと瞼の上を撫でてあげます」「文ちゃんがお菓子なら頭から食べてしまいたい位可愛い」などといった、シニカルな龍之介の外見からは想像もつかないほど可愛らしい内容の手紙を送り、素直で純情な文を愛していました。文と結婚できる日を心待ちにしながら、「不愉快な二重生活」に耐えていたのです。
 執筆活動は順調でした。「新人作家現る」と新聞や雑誌で大々的に取り上げられ、一躍、時代の寵児となりました。佐藤春夫室生犀星といった、生涯親交の続く作家仲間を知ったのもこの頃です。
 大正七年二月、婚約していた塚本文と挙式をあげ、文・フキ・女中との新しい生活が始まりました。大阪毎日新聞社の社友となりました。社友契約第一号が『地獄変』です。その後も、『蜘蛛の糸』、『奉教人の死』、『枯野抄』といった佳作を次々と発表していきました。相変わらずの二重生活ではありましたが、人生でもっとも充実した時期となりました。
 翌年三月、海軍機関学校の嘱託教官を辞し、筆一本の生活に専念できるようになりました。田端の自宅に戻り、『我鬼窟』と称した自宅の二階で、読書や執筆活動につとめました。日曜日を面会日とし、龍之介と仲のよい文人は勿論、様々な文化人が龍之介のもとを訪れ、大変にぎわいました。
 龍之介の人気は、更に上がりました。甘いルックスもあいまって、龍之介のブロマイドが売られるほどでした。龍之介は、文壇のアイドルのような存在になったのです。
 その反面、高い名声から来る重圧に苦しみました。『邪宗門』、『路上』、『妖婆』といった、いくつかの中・短編に挑戦しましたが、いずれも失敗に終わりました。王朝モノのマンネリズムにも苦しみました。しかし、大正九年ごろから『舞踏会』、『秋』、『南京の基督』といった現代モノや、『アグニの神』や『杜子春』といった童話なども多く書くようになり、『芥川龍之介』という作家は、王朝モノに留まらない、幅広い作家へと進化していきました。
 一方、龍之介は、妻帯者でありながら、ひとりの女性に恋をしてしまいました。大正八年、岩野泡鳴が主催する十日会で、秀しげ子という女流作家に出会いました。龍之介は、しげ子の文学的才知と、年よりも若々しく見える姿に惚れ込み、仲良くなりたいばかりに馴れ馴れしく話しかけました。一時期はしげ子を『愁人』と呼ぶほど深く愛し合いました。しかし、絶縁後もしつこく付きまとい、しげ子に息子が生まれると「この子、あなたに似ていないかしら?」などと言い寄る、動物的本能に、龍之介は生涯悩まされ続けたのです。
 大正十年、龍之介は、大阪毎日新聞社から海外視察員として、中国に派遣されました。元々中国が好きだった龍之介には、中国趣味に触れられること、絶縁後もしつこく付きまとうしげ子から離れられることが嬉しかったそうですが、実際はまったく楽しめるものではありませんでした。休む間もなく東奔西走し、夜は宴会やノートの作成などに追われました。帰国後、神経衰弱や不眠症に激しく悩まされるようになりました。

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