5・苦しみ
大正十一年春、書斎の名前を『澄江堂(ちょうこうどう)』と改めました。これは、龍之介が幼い頃から慣れ親しんだ、墨田川にちなんだものです。帰国直後からの神経衰弱から心機一転を図る目的でもありました。しかし、現実は思うようには行きませんでした。友人の小穴隆一とともに志賀直哉のもとを訪問した際、志賀が三年間小説を書かなかったことをしきりに聞きたがり、「俺は小説など書ける人間ではないのだ」と漏らしたそうです。
龍之介の健康は、更に悪化していきました。神経衰弱、胃痙攣、腸カタル、ピリン疹、心筋梗塞……などなど数えればきりがないほどの病気を併発しました。そして、毎年引き受けていた新年号のオファーも、この年末にはすべて断ってしまいました。
翌年、菊池寛が『文藝春秋』を創刊すると、龍之介も創刊号から、『侏儒の言葉』という、巻頭のアフォリズムの連載を開始しました。この頃から、俗に『保吉もの』と纏められる私小説を発表し始めました。これまでの龍之介は、私小説を書くことを嫌っていました。自己の経験を基に書くものでも、大抵はフィクションに題材を借りていたのです。しかし、誰もが私小説を書いている時流には逆らえませんでした。
「俺が書きたいものとは違う!」
自分が書きたいことと、自分が書いてしまうものと、世間が求めているものとがすべて一致しないのです。
この年の九月、関東大震災が起こりました。龍之介の家や家族に被害はありませんでしたが、一部の友人や親族は家を焼かれるなどの被害に遭い、多くの古書や美術品も消失してしまいました。龍之介はこれを大変残念がりました。
大正十三年四月、龍之介は千葉県の八街へと取材に出かけました。八街の町で起こった紛争のことを、実際の町を訪れたり、人の話を聞いて、作品にしたためようと思ったからです。この実地調査をもとにして『美しい村』という小説を書こうとしましたが、未完成に終わってしまいました。
この年の七月、室生犀星らと軽井沢に旅行した際、松村みね子(本名:片山広子)という女性に出会いました。みね子は龍之介よりも十四歳年上の女流歌人です。
養父・道章の弟である竹内顕二の死と、文の弟である塚本八洲(つかもとやしま)の喀血が重なったこともあり、龍之介の健康は更に衰えていきました。ついに、この年の十月以降は一度も小説を発表できませんでした。この年の末、庭に新しい書斎が完成しました。
大正十四年二月、田端に萩原朔太郎が引っ越してきました。朔太郎は三ヶ月ほどで田端を去りましたが、小説をあまり読まない朔太郎でも龍之介の小説を認め、朔太郎の詩集『純情小曲集』に感銘を受けた龍之介は、朔太郎の元に寝間着で駆けつけたほど、お互いを認め合いました。
この年の秋、『近代日本文芸読本』を興文社から刊行しました。龍之介が編纂人となり、多忙を塗って二年がかりで完成させたものです。明治からの作家約四百五十人の作品を収録しましたが、あまりにも凝った内容であるためか、売り上げは芳しくありませんでした。当然、印税も僅かなものでした。そればかりか、「芥川が私の作品を無断転載した!」などと言い出す作家までいたのです。龍之介はそれらの作家に一円を支払いましたが、気遣いは裏目に出てしまいました。「芥川は印税を独り占めした」「芥川は印税で書斎を作った」などとデマを流す作家まで現れたのです。そのなかには、龍之介の先輩とも言えるベテラン作家もいました。さらには、この頃からプロレタリア文学が台頭し始め、龍之介は「ブルジョワ作家」と攻撃されるようになりました。これらの出来事が、龍之介の神経を更に悩ませました。
龍之介の健康は、更に悪化していきました。龍之介はこの年、小学校時代の同級生である清水昌彦に対し、「生きて面白い世の中とも思わないが、死んで面白い世の中とも思わない。僕も生きられるだけ生きる。君も一日も長く生きろ」と書簡を送っていますが、本当は自分の病気が不安でなりませんでした。