6・自裁へ
龍之介は、相変わらず書けなくなっていました。斎藤茂吉には「書くに足るものは中々書けず。書けるものは書くに足らず。くたばってしまえと思う事がある」と手紙を送っています。宗教に救いを求めようと、牧師から聖書を受け取ったこともありますが、神すらも信じられなくなっていました。
喧騒な東京から離れ、静かな環境で書こうと、改造社から借金をして、妻と、まだ乳飲み子の三男・也寸志とともに鵠沼に移住しますが、鵠沼も落ち着ける場所ではありませんでした。音に過敏になっていた龍之介は、ヴァイオリン、ラジオ、蓄音機、笛、ラッパ、歌、太鼓、祭囃子など、あらゆる音や声にイライラしていました。さらには東京からの来客も多く、龍之介が落ち着ける時間はありません。ちょうど同じ頃、龍之介の異母弟・得二が出家したいと言い出し、龍之介は更に悩まされました。睡眠薬の量はますます増えていきました。そんな苦しみの中で書いたのが、自分の実父・実母・長姉について書いた『点鬼簿』です。これを書くのに、一行もペンが進まない状態で、額に汗を流しながら、何日もかかって書いたそうです。この頃の龍之介は、アヘンエキス、ホミカ、ベロナール、下剤など様々な薬を、まるでそれを主食に生きているような状態でした。
昭和に年号が変わって間もなく、次姉・ヒサの夫、西川豊の家が全焼しました。西川は元弁護士で、偽の証言を教唆したとして、失権していました。また、高利の金を借りていました。この家は時価七千円の家に三万円の火災保険がかけられており、それによる放火だとされています。しかし、西川は、放火の嫌疑が掛けられ、周囲からひどくバッシングを受けました。その直後、西川は鉄道自殺を遂げました。龍之介は、それらの事件の後始末のため、病身に鞭打って東奔西走しなければなりませんでした。この事件によって十三人に膨れ上がった扶養家族を養うため、どうしても龍之介は書かなければならなくなりました。
この頃から、龍之介の右の視界に、半透明の歯車のようなものがまわるようになりました。このことは『歯車』に書かれていますが、他にもちょっとした単語に敏感になり、幻覚や幻聴、被害妄想に苦しめられるようになりました。斎藤茂吉に対して、「唯今の小生に欲しきものは、第一に動物的エネルギイ、第二に動物的エネルギイ、第三に動物的エネルギイのみ」と送っています。様々な苦しみの中でも、本当は生きたい、そう思っていたのでしょう。同時期に、興文社・文藝春秋の『小学生全集』と、アルスの『日本児童文庫』という、児童向け文学集の企画がバッティングしてしまいました。興文社は菊池寛に小学生向けの児童文学集の編集を依頼、龍之介もこれに協力しました。しかし、相手のアルスには、龍之介が第一短編集『羅生門』を出版してくれたご恩もあります。アルスの『中国童話集』の執筆を引き受ける約束もしていました。龍之介はアルスに対し、裏切った形になってしまい、龍之介の心に深く傷を残しました。
四月七日、文の友人である平松ます子とともに帝国ホテルで心中を図る計画をしました。しかし、ます子が当日来なかったため、未遂に終わりました。龍之介の自殺願望はますます強くなり、ひそかに遺書を書いたり、友人への告別を行っていました。
同じ頃、谷崎潤一郎と文芸論争を繰り広げました。「話の筋書きが小説の面白さを決める」と主張する谷崎に対し、龍之介は『文芸的な、余りに文芸的な』志賀直哉を例に挙げ、「筋書きのない小説でも小説として成立する」と主張しました。
五月、里見弴(さとみとん)とともに、東北・北海道方面へ、改造社の宣伝講演旅行に出かけました。今でこそ飛行機や新幹線で簡単に行ける距離ですが、この当時は夜行列車しか手段がなく、それも何日もかかってしまいます。龍之介たちは、仙台・盛岡・函館・札幌・旭川・小樽をわずか十日間でまわるという、ハードスケジュールに追われ、昼は講演会、夜は歓迎会に出席し、ゆっくりと観光を楽しむ余裕がありませんでした。講演会の後、里見とわかれ、龍之介が単身で行った旧制新潟高校の講演が、生涯最後の講演となりました。
龍之介の友人・宇野浩二が発狂しました。このとき、宇野の親友である広津和郎(ひろつかずお)とともに、宇野の面倒を看ましたが、心の中で自分のこと、そして実母のことを思い出しました。龍之介の母親が発狂した年齢を過ぎていたのです。「俺もお袋や宇野君のようになるかも知れない」と言った不安が龍之介を襲いました。
七月二十日、八月に九州で行われる、民衆夏季大学の講師の依頼に対し、こう電報を打ちました。
「ユク アクタガハ」
相手はこれを、来てくれるものだと捉えましたが、龍之介の行く先は九州ではなかったのです。
翌日、宇野浩二の留守宅を訪ね、宇野夫人と家族の生活費のことなどについて話し合いました。このとき、やはり龍之介は、宇野のことを気にかけ、
「これを宇野君に着せてください」
と、浴衣をプレゼントしました。
七月二十三日、『続西方の人』を書き上げました。この日の夜、龍之介には珍しく家族全員で、楽しみながら食事をしました。夜遅く、「自嘲 水洟や 鼻の先だけ 暮れ残る」と書いた短冊をフキに預け、明日、主治医の下島勲に渡すように依頼しました。
七月二十四日、芥川龍之介は、いつも過ごしている二階の書斎で、ある薬物を飲みました。龍之介が服用したのは、ベロナールともジャーナルとも青酸カリとも言われていますが、いまだ定かとされていません。致死量の薬物を飲み、べろんべろんに酔った龍之介は、その場に倒れてしまいました。異変に気付いた文が駆けつけましたが、時既に遅く、午前七時過ぎに死の告知が行われました。龍之介の枕元には、『聖書』が置かれていました。本当は生きたい、だけれども生きるのに苦しみ、神を信じようとしていたのでしょう。しかし、神すら信じられなかった、そんな龍之介の死に絶えた姿がそこにはあったのです。享年、数え年で三十六歳。 いつもの夏よりもずっと暑く、雨の降りしきる、そんな日曜日の朝のことでした。
龍之介は、『或旧友へ送る手記』の中で、「何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である」と述べています。その「ぼんやりした不安」が何なのかは、未だにはっきりしていません。
三日後、谷中斎場にて、葬儀が行われ、先輩総代の泉鏡花、友人総代の菊池寛、後輩総代の小島政二郎、文芸家協会代表の里見弴が、それぞれ弔辞の言葉を述べました。
龍之介の遺骨は、現在の豊島区巣鴨にある慈眼寺の境内に葬られました。墓は、龍之介の遺志にしたがって、いつも用いていた座布団をかたどり、小穴隆一の手で「芥川龍之介墓」と刻まれた清楚なものとなりました。
龍之介の死から三ヶ月あまりが経った、昭和二年十一月、岩波書店から『芥川龍之介全集』が発刊されはじめました。これは、龍之介がもっとも尊敬していた師匠・夏目漱石と同じ出版社から出して欲しいという、龍之介の強い願いによるものでした。